元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

自分のいる世界、唯一の must

人は自分のいる場所、居た場所を「すべて」だと思っていないだろうか?

実は自分が居た世界というのは「一つの社会」という枠組みでしか過ぎず、下手すれば社会ではなく村ですらない狭量なカラム(一区切り)ですか過ぎなかったのではないだろうか? 例えば、ネットの世界で言えば2ちゃんねる(現5ちゃんねる)や Twitter、Facebook の中にどっぷりと浸っていれば、そこの世界での発言が全世界の意見と捉えたり、街、集会、家族、兄弟といった枠組みに矯正されていれば、そこでの視野が絶対的なものと思わさせられる。

そしてエホバの証人王国会館といったグループに居た時にはそこでの見方は顕著で、外部に目をやったり「この世」に関する情報を完全にシャットアウトさせられ、狭量な視野を持たざるおえなかった

自分の世界をそんなに狭くしていい理由はあるだろうか? そしてそこでの見方は絶対的な観点からすれば正しいと断言できるものだろうか、そして何よりも狭い視野を持たなければいけない理由を自分で勝手に作っていないだろうか

「井の中の蛙大海を知らず」

「世間的に見てこれが正しい」「世界はこういう見解が当たり前」「エホバはそれを悪とみなしており、絶対的にいけないこと(もの)だ」。 それらは自分の視野を狭くし、生き方を強制的に小さくさせる見解でしか過ぎない。

「井の中の蛙大海を知らず」といったことわざがある。

井戸の中のカエルは井戸の世界が全てだと思ってふんぞり返っていたとしても、その井戸の世界は狭い世界でしかなく大きな海の存在を知らない。 大きな海の存在を知れば自分がちっぽけな存在であることを嫌でも知ることになるだろう。

では、僕たちは井戸の中に居続けていいのだろうか? そして大海を知らなくてもいいのだろうか? 答えは言わなくてもわかるだろう。井戸の中は狭いカラム(一区切り)でしか過ぎないゆえに海の存在を知らなければ自分の視野を広げることはできない。

さらに言えば、海よりも大きな存在である地球・太陽系・銀河・宇宙といったより大きな物の存在があることを知る必要がある。そういったより大きな物の存在を知り世間知を広げた方が人生は得する仕組みになっている。

なにも世界に飛び出さなければならないといったことを言っているわけではないが、自分の居場所を局所的なものにするのではなく、点在させたり今いる場所以外にも自分が居てもいい場所を作り出していく必要がある、ということを伝えたいだけだ。 そう、自分を狭量な価値観しか持てない人間にする必要性はどこにもない。エホバの証人時代は価値観の強制と矯正があったが、元エホバの証人やその二世たちには自分の価値観をエホバ及びものみの塔聖書冊子協会に合わせなければならない理由はどこにもない。 自分で作り上げていった価値観を認め、そして失敗したりコケたりしたとしても、それらのミスはこれからの自分をより良くするための糧になる。 失敗を恐れて人に敷かれた道を歩き続ける理由なんて一切ない。

そして、自分で作り上げた価値観及び居場所には敵対する勢力が必ずといっていいほど存在するが、それは当たり前だと思って構わない。 万人に好かれ、一切嫌われないといった生き方は不可能なので、自分のコンフォートゾーン(心地の良い場所・空間)に居続ける必要の方が非常に大切なことであることを深く認識する必要がある。 ゆえに自分の居場所を敵及び過去に知っていたエホバの証人たちが存在するとしても一切気にする必要はない。

世間知を広げ、そして自分の持っているもの・ことを世界に広げていくことから人生の価値を作り出し見出すことができる。 自分はこうでなければいけない、こういう道徳性を持たなければならない、といった must(必ず〜でなければいけない) を自分に持つことはもはや必要ない。 したいことやものを自分の中で持って作り上げて、幸せにならなければいけない理由(唯一の must )だけを絶対的なものにしていった方が強さは否が応でもついてきてくれる。