元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

ひとの愛し方ってなんだろう?

人の愛し方について

端的にいうとこういうこと。

  • 自分の愛されたい方向で人を愛するな
  • 物理及びサービスの提供者であるな
  • ありのままの自分でいてくれることを許してくれる人とともにあれ
  • DV(物理はもちろん精神も含めて)は論外

自分の愛されたい方向で人を愛することの害について

人の愛し方は愛されたい方向性と酷似している。

人は愛されたい方向性があり、そして、その方向性に伴った愛し方をすることは比較的得意だが、他人はそもそもその愛され方に慣れているとは限らない。過剰・過度の愛し方に慣れているのであれば自分の持っているいわゆるエホバの証人的自己犠牲の愛し方は有りだろう。 だがしかし、それは相手がもしそれを求めているのであれば、自分は将来的に疲弊してゆき、後々自分の存在について非常な疑問を抱くことになる。すなわち自己犠牲有りきで人を愛するということは自分の存在を皆無なものありきであって、愛されることには一切つながらない。

愛することは自分の愛されたい方向とは決して異なる。 愛したい相手がエホバの証人であればそれはある程度トレースできる生き方ではあるであろう。しかし、相手がエホバの証人時代でいう「この世の人」という人たちであれば、エホバの証人時代の愛し方すなわち自己犠牲的な愛し方は気持ち悪いものである。心理学者アルフレッド・アドラーの言っていたゲッターという人たちであれば、それは大好物な方たちではあるが、それらの人たちは自分の愛し方を利用する人たちすなわちあなたは利用されては棄てられるツールのひとつと化す。 そういった利用される立場になりたい人であればいいが、そんな生き方は正直いって唾棄すべき生存方法である。

物理及びサービスの提供者であるな

人は物を受け取ったりサービスを施されたりすることによって、提供者は自分の価値を高めることがままある。だが、それは自分の存在価値を放棄しており、物およびサービスありきの自己実存でしか過ぎない。

愛することはそれら物及び快楽の提供では一切ない自分が自分で居ていい理由を相手が与えてくれるものである。

ものでしか相手を喜ばすことができないのは自分がその程度もしくは、相手がその程度の悲しい存在である、ということである。

ありのままの自分でいてくれることを許してくれる人とともにあれ

今、あなたが奇声を上げたとしよう、その際あなたをパートナーである人はどのように反応するだろうか?

  • 憤る
  • 怒る
  • 否定する

もし上記の方であれば愛されていない証拠ではある。 奇声を上げても相手が驚いて心配してくれるのであれば愛されていることになる。あなたは信頼口座を十分に得ている証拠でもあり、そしてそれはあなたを思いやっている事象でもある。 本当の愛は相手がどうなろうとも受け入れてくれる。相手を承認できる存在で有り続けてくれる。そんな人に好かれよう。

DV(物理はもちろん精神も含めて)は論外

ことにエホバの証人二世は、物理的な虐待はもちろん精神的な虐待に対する耐性はそれなりに備えられている。だがそれは自分を将来的に精神をすり減らせる材料にしかほかならない。

厳密にいえば、日本のエホバの証人は二重の苦しみを受けている。それは

  • 罪の意識
  • 恥の意識

の両方が介在している生き方を強いられてきた。

罪の意識は聖書及びキリスト教世界から入れられたものであり、恥の意識は日本固有のもので、それを得る(恥をかく)と人として否定される生き方だ。僕たちエホバの証人二世は罪と恥の概念を刷り込まれそれを強く意識させられ生きてきた。

でも考えて欲しい。

元エホバの証人であれば、罪の意識なんて持たなくてもいいじゃないか。

さらにいえば、恥の概念はそもそも必要だろうか。

それらの意識は過剰に自己のエセ高みに委ねた生き方であって、本来の自分とは一切関係のない、いわゆる他者が形成させていた弱さを隠すための概念でしか過ぎないのではないか? 人は弱いし恥を隠し間違いもするし罪も犯す。しかしそれらは自分を高めそして強くしていく。 強くしていく材料を自ずと放棄する必要なんてあるだろうか? 確かに他者に対して傷をつけてはいけないけど、自分を傷つける行為すなわち転んで立ち上がっていく行為に意味はない、と果たしていえるだろうか。 ころんだ数だけ早く確実に立ち上がれただろう。 どんどん失敗して転んでいけばいい。

立ち上がれるなら、それが強さだ

話がそれて申し訳なかったが、人を傷つける行為に対しては自分を傷つける行為にしかならないので端折ってしまった。

自分を大事にしたいのであれば、エホバの証人二世であれば、肉体的精神的な他者への虐待は意味をなさないことを重々承知しているだろうからなにもいわなくても理解しているだろう。

愛し方が相手にハマった時の満足感

人の愛し方を自分なりの形で学んだ時、そして自分の愛し方を相手が受け入れてくれた時、その喜びは半端なく嬉しい。 それはとても自分を嬉しい思いだけでなく、自分の必要性について理解できることになる。

愛され方を理解する前に愛し方を理解することはとても難しいかもしれないが、人はそもそも愛し方なんて最初からわかっていないものである。 ましてやエホバの証人二世なんて聖書マニュアル及びものみの塔聖書冊子協会的愛され方しかわかっていない。そんな愛し方は一蹴してしまえ、と僕は断言する。

娘息子じゃない限り、自己犠牲的な愛し方でしか自分を愛してくれない人は本当はいらない。 自分の愛の形を受け入れてくれる人を、頑張らない形で愛しつくそう