エホバの証人二世の「自分の愛し方」について
エホバの証人二世は自分への愛し方が至極苦手である。
理由は言わずもがなだが、それは「自己犠牲ありきの」他者への貢献が伺える(イエス・キリストの表明していた愛を実践「させられている」からだ)。
実際それは僕自身でも経験しているし、それによって勝ち得た愛もある。しかし、それは自己不在ありきの愛し方であって本来の愛し方ではない。
愛とは愛され方にも慣れていることでもある。
愛することも重要だが、愛されることで相手への愛し方を理解できる能動的なものでもある。それを受動化することでエホバの証人の二世たちは理解の範疇を超えたものとして誤解させられていた。
愛することに理由は要らない。だが、愛されることには理由はある。
その立場になれば分かることだが、「無償の愛」なんてない。
いかに責めるか、如何に行動的になれるかが愛することのキーワードだ。
愛することの受動性は無価値であって、能動性しかその価値はない。
自分から愛することを心がけよう。