元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

元エホバの証人二世だった僕の近況-2(お金がなくても得られるもの)

最近は比較的安定しているが、なによりも金がない。

元妻が引っ越し魔でトータル1,500万円以上それに費やしたからというのもあるだろう。よって貯金もなくなり、その元妻が利用したキャッシング枠による借金もかさみ、今は貯金もままならない生活が続いている。

しかしそこに辛さはない。

元妻がその借金および手切れ金で離れてくれたおかげで精神的にも安定したのは事実だ。そして今はこんな借金まみれでお金もない僕なのに彼女がそばにいてくれている。

元妻はエホバの証人用語で言うと「この世の人」で、共産党員の叔父を持ちその思考に影響を受けたのか、社会性悪説を信じていたのだろう。資本主義のあり方に対して疑問を持っていた。だが、僕が稼ぐようになり、お金がとても便利で何事も自由度が増す物質であることを悟ると僕の意見を無視して引っ越しや必要以上に外食をしたりするようになった。

共産党としての意識はお金を持てば吹っ飛んでしまうのも軽く笑えるが、人は金で変わるのを目の当たりにしたのはこれで初めてではない。

母もお金によって変わってしまった。というよりも、お金を与えることによって本性を表したといっても過言ではないのかもしれない。ただ、その本性を出すのにお金は非常に楽にできるツールでもある。

母は僕にお金がない時代に病院に行く金が必要だから110万円ほどいるという話をし、そのお金を僕から情で奪い取った。実際、母はそのお金を別の高級な家具や同じエホバの証人同士の人にコチョウランを上げたりするのに利用していた。そんな心臓に毛が生えた性格だからか、今は心臓の病気で死ぬことなくその手の薬も飲むことなく光愛病院で認知症として元気に生活している。その病院は元妻が僕と結婚する前に入院していた病院でもあるのは偶然の一致だろうか? 人は何かしら運命的な点で繋がれているものなのかもしれないとつくづく思うものだ。

 

このように僕は自分にお金を使ってお金がなくなったわけではなく使われることでなくしていった。自分にもっとわがままにお金を使っていたならば、もっと豪華な人生を謳歌していたのかもしれないが、今はそんな空想上の出来事に逃げたとしても仕方がない。今ここが僕には必要であって、無くなったものを悔いてもそれが戻ってくることは決してない。お金がないがゆえに厳しい生活はそれなりに強いられているが、こんな貧乏な僕でも彼女がそばにいてくれている。そして彼女のそばで僕は自由を満喫しているが、その自由には制限も無ければ抑圧的で抑制的だった過去の息苦しさは微塵もない。

愛する人のそばにいるということが何なのか、ということを本当に悟ったのは41歳になってからだと思うと遅い気がするが、ずっと得られないで他責的な生活を送っている夫婦像などを垣間見ると、愛することの自由と心地よさってお金で買えるものでもなくて、お互いの優しさと思いやりで得られるものなんだろうと思う。

お金がかんたんに手に入っていた時期、僕は酒ばかり飲んでいたが決して潤うことはなかった。お金がそれなりにあっても乾いていて満たされることはなかった。しかし今はお金のない僕のそばに、彼女が笑ってそばにいてくれる。一緒に歩いてくれている。お金じゃ手に入らない心地よさは、頑張らなくてもかんたんに思いやれる同士の人間関係ならいともかんたんに築き上げられるものなんだな、と思うと感慨深いものがある。

 

エホバの証人ではないと得られないものはあまりにも乏しいけど、聖書にかかれていない自己肯定と他者貢献は、本当に成長するのに必要なものだと彼女が教えてくれた。

エホバの証人で失ったものはあまりにも大きいと思っている人もいるだろうけど、今からでも「思いやり」と「思いやられ」の関係性は作り上げることができる。それは年をとってしまったから無理と思うのじゃなくて、「今ここ」から始めたほうがいい。そっちの方が生きていて楽しいことなのだから。