元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

そして今の僕(エホバの証人後)

結婚を迫られ離婚された

結婚生活は15年も続いた。

元嫁はいわゆるこの世の人で、大分以前の記事で言及したが結婚する当初はこちらから結婚を促したのではない。元嫁から『結婚しなきゃ死ぬ』という善人に対して効果的な脅迫をしたことから起因する。

しかしこの結婚生活は僕が望んだものではなかったので、元嫁からの強制からエホバの証人を離脱し元嫁との生活を選んだ。

そこでやっと自由が得られたと思ったがそうではなかった。

元嫁からの束縛はより一層強くなり、僕がお金を稼ぐことができる様になると引っ越しをやたらと促すようになった。 僕自分、引っ越しをすることは好きでなかったが、元嫁の発言権は非常に強く案の定、自分の死をそそのかすことで僕を脅迫することに成功していった。そういったことの積み重ねにより僕は精神的に摩耗していく。

エホバの証人時代のフラッシュバック

経済的に成功していくのは良かったが、成功することによってできるのは自由な時間だ。その自由な時間は過去の自分を想起させ、そして辛かった過去の自分を呼び起こす。いや、呼び覚ます、といった方が正しいだろう。

やがて僕はエホバの証人時代のことを思い出していくことによって自分で自分の首を締めていった。

自由とはなにか、自分とはなにか、お金とはこんな簡単に手に入っていいものなのか etc... そういった思考の順繰りが苦しめることにつながっていった。

家庭環境のフラッシュバック

そして家庭環境も決してよかったとはいうことができなかった。

僕は母親に少なく愛され、そして兄及び弟は深く愛されていた。以前の記事でも述べたが僕は次男なので少なくしか愛されない旨を母親から直接いわれたことがある。それくらい僕は他愛もない存在だった。

そういったことを思い出すことにより、僕は自分を真綿で自ら自分の首を締めていくことになる。

それからの精神障害

過去を思い返し、そして辛かった自分を思い出し続け、そして仕事に多忙を極めることによって僕は自分を追い詰めていくことになる。人間は多忙による精神的摩耗には耐えられないし、癒やしを与えてくれる存在がない限り頑張り続けることはできない仕組みになっている。誰かのために生きよう、と思っても子供もおらず(というよりもどうせ不幸になるだろうから作らず)、ただタスクをこなしては元嫁及び人の機嫌を伺い続ける生き方をしていた時代でもあった。

そういったことの積み重ねにより、僕は精神病院の戸を叩くことになり、さらに入院するという経験もすることになる。自殺未遂も行い、もはや生きている理由なんて何も見出すことはできなかった

それから僕は惰性的に生きることを選び、そして元嫁のことを愛している錯覚から生きようとは思うも、違和感のある生活を送り続けそして自己を否定する生き方を過ごす。

これは結局、エホバの証人時代の生活と大差ない。 さらにいえば奴隷状態という共通点があり、そしてその奴隷状態にしていたのはエホバの証人時代のルールが無意識に自分の中で形成されていたことからくる自縛でしか過ぎなかった。

それから僕は自分を殺す生き方をし続け自分をごまかし続ける生き方をすることになるが、乖離を経験することから僕は不貞行為を行ったということで離婚を宣告される。もちろん僕は不貞行為を働いた記憶などなく、今現在の状況(元嫁が就労支援センターで知り合った男性との間に子供ができたこと)から察するに虚偽なのかもしれないと思うも、僕は結果的にあるものを得ることができた。

離婚されたことから得られたこと

こういったことから僕は離婚を経験することになるが、僕はエホバの証人時代から継続していた自分という生き方をようやく得ることができた。自分としての生き方を許される、というのは自由の特権であり、その自由により僕を不安にさせることはなかった。

自由

人は急減な自由に対して不安を感じると、とある書籍で読んだことがある。しかし、僕はそう思うことがなかった。自由により僕は勉強する時間を手に入れスキルも手に入れ、自分に正直に生きていい権利を獲得し、そして気兼ねをする機会をなくすことに成功した。

自由は人を羽ばたかせるだけではない。人により不安に思うこともあるかもしれないが、僕は思い通りに生きても構わない、制限のタガを取ることがやっとできた。

年齢にして38歳。僕はやっと自分の時間と価値観を持つことができた。

自分は自分でいていい理由を知ったこと

離婚されたことから得られたこと、自由以外には自分は自分でいていいということだ。 自分は夫だから、自分は父親だから、自分は上司だからetc... そういった束縛を僕は持っていない。そこから僕は柵をなくすことができ、そこから自分は自分の思う自分でいていいんだ、と思うことができた。

愛されるために頑張るのは間違いであること

人は孤独に弱く、金持ちですら孤独を避けるために twitter をしたり愛してほしい人に貢物を施したりしている。しかし、そういった行為には意味はなく、愛されるために頑張るというのは自己実存の放棄である。自分のままでいることを棄ててまでして愛されたい、というのは強さじゃない。愛したいことで自己実現することが本当の愛であり、愛することで愛は勝手についてきてくれるものだ。愛さない限りサービスやお金じゃ愛は得られない。

それに愛することの方が楽しい。そう、愛することは聖書にはなく自分と相手の中にある感覚が作り上げるものであって、人生に指南書はあれど絶対的なマニュアルなんてない。 他人及び「神」を絶対視することは結局のところ裏切られ自分をも裏切ることになる。最初から自分を信じてミスりまくる人生の方が実際成功は多いし、自尊感情はあとからいくらでも身についてくる。

今現在

愛すべき人の側で仕事ができる満足感

今、この記事を僕は愛している人の隣の部屋で書いている。もちろんその人は僕を愛してくれている保証なんてどこにもないし、僕が勝手に愛したいから愛しているに過ぎない。たとえ僕の元から離れようとも、僕は後悔しない生き方を選んでいるつもりだ。

僕は愛すべき人にやっと会えて僕から愛している旨を伝えている。愛されなきゃ死ぬと脅迫する人ではなく、思いやりに富み、優しさにあふれている(ただし打たれ弱いのでそれなりに気は使うが)。しかし、今の愛すべき人は仕事をしている僕をも包含して思いやってくれる。それが僕にとって新鮮で最初は違和感を禁じ得なかったが、今では当たり前のように仕事をさせてくれる彼女に感謝している。

人も仕事を呼ぶが、自分のスキルが勝手に仕事を呼んできてくれる

自分の思うように仕事及び勉強ができるということは非常に素晴らしいことだ。元嫁とは寂しいから仕事しないでとか一緒になにかしなきゃ嫌だ、という脅迫的な関係であったが今はそんなことをいう人はいない。彼女は僕に仕事をさせてくれる。当たり前のことといえば当たり前だが、それが逆に僕を成長させてくれた。

今までできなかった仕事もできる自負を得ることができ、その結果多くの仕事をこなすことに成功した。さらにその仕事は次なる仕事を呼んでいってくれた。彼女は僕に仕事を選ぶ自由まで運んでくれた。今までできなかったことをできる様になると人は自由と余裕を得られるようになる。僕は仕事を選べる立場にまでなった。

愛されるために愛するよりも愛されなくても愛すること

ストーカー的な一方通行の愛し方はいらない。ただ、愛することは人に自由を与えそしてチカラも得ることができる。頑張れる自分を形成していって気がつけば頑張ったことにならなくて、それが成長になっていって楽しいことにさせてくれる。 人は強くなると楽しさしかない。そして弱くなることを考えて弱くなるが、強い人はより強い人と会いたがる。僕もそんな感じだ。

でも自分の弱さは見つめてはいる。だがそれは克服すべきことで克服した時の達成感はとてつもなく心地よい。僕は自分のバグフィックスを楽しんでいる。