エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

エホバの証人の子どもとして

僕はエホバの証人の二世として20年近く「信者」として生活していた。

もちろん今はもうエホバの証人じゃない。23歳の頃、エホバの証人たちに何も告げずに離れていった。

 

辛い思い出と、楽しかった思い出を天秤にかけるとやはり辛い思い出の方が多いと思った人もたくさんいるだろう。僕もエホバの証人に関しては辛い思い出ばかりで楽しかった思い出はさらさらない。

 

なら最初から信者をヤメればいいのに、と思うかもしれないが、幼い子どもは母親や父親たちから嫌われたいと思う人はいないはずだ(中にはそうでもない人もいるだろうが数は少ないのでは)。また、中にはその親のキマリの中にいないと、食事ですら与えられない子どももいたそうだ。

 

僕の親は食事を与えない、というな親ではなかったが、幼いころからエホバの証人として集会に行かされ、集会中に寝ないようになんとか嫌われないようにするのに精一杯だった。

 

二世の方たちなら知っていると思うが、集会中に寝てしまうと「王国会館」といって集会をする場所から親に連れだされ、おしりをベルトやしゃもじなどで叩かれる、という今では体罰でしか過ぎないことが平然と行われていた。ドMじゃない限り、だれだって叩かれるのは嫌なので、王国会館の外からよく泣き声や悲鳴が聞こえた。もちろん僕も例外なく集会中に寝てしまい、おしりを叩かれ泣いて母親に謝ったことはよくあった。

 

その結果、親に対しては恐怖の念が根付き、僕は母親に対してビクビクする性格の青年となってしまった。

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エホバの証人時代だった自縛を打破する

エホバの証人時代が長すぎたせいか、元エホバの証人二世たちは人に好かれなければならない感覚にとらわれてしまっている気がする。

僕も実際そうだったし、人に嫌われないためにはかなりの努力をしてきたつもりだ。確かに人は他人に嫌われて生きていきたい、と思う人は少ないとは思うし、いまだかつて僕はそんな人に会ったことがない。

では、元エホバの証人二世たちは(もちろん二世たちだけに当てはまることでもないが)、自分たちは誰のために生きているのだろうか。

誰のために生きているのか

エホバの証人の二世たちは、自分の人生を生きてきたわけではない。ずっと親や周りの兄弟姉妹たちの意見もしくは長老たちの意思に沿って生きてきたのではないだろうか。 しかし、そういった生き方はいずれ息苦しさを生み出し、そして自滅に至る。

せっかく苦労して自分を殺してまで、他人のため親のために生きてきたのに、僕たちエホバの証人二世たちはだれのために生きてきたのだろうか。

いわずもがな、自分は自分のために生きるべきであって、人のために生きているわけではない

自分を殺してまでしてきたことは、結局だれのためにもなることもなく自分の生き方を犠牲にしただけの単なる無駄な行動でしか過ぎなかったのではないだろうか。振り返るとそういった自己犠牲ありきの生き方は自分の親や周りのエホバの証人たちを喜ばせることには至っただろうが、それは自分の笑顔を生成するものではなかったのではないだろうか。

では、僕たちエホバの証人二世は自分のために生きる方法としてどんなことをしなければならないのだろうか。

賞罰教育から抜け出す

元エホバの証人二世たちはムチと精神的な攻撃にさらされることによって、人から親から多く罰を受けてきた。そして人の顔色を見て育てられた結果、人を恐れる生き方を強いられることになり人の機嫌を伺いながら生活する日々を過ごしてきた。 しかし、そういった罰は何を生み出してきたのだろうか。それは人に対する恐怖心を生み出す結果となってしまったのではないだろうか。

そういった恐怖心は萎縮する心を作り出し、何事もできない臆病な自分を生成してしまったのではないか?

もしこれを読んでいるあなたが元エホバの証人ならば、エホバの証人をやめたのであれば、今現在、自分の周りにいる人たちは自分に対して罰を与えるような人間たちばかりだろうか? エホバの証人時代と比べて今はそんなに自分を罰する人はあまりいないのではないか? さらに言えば自分を罰する人がいたとしてもその人は支配性に支配されたか弱い人間でしか過ぎないのでは無いだろうか。

支配性に支配されている人は基本的に弱い。人を支配することによって自分を偉く見せることが好きな臆病な人でしか過ぎず、そういった人は支配性を持つがゆえに強くなることはできない。僕たち元エホバの証人二世たちはそういった支配性からの自由を選んだのではないだろうか? それらを考えてみればそういった支配的な感覚から若干開放されたほうがまだマシではないか?

好きなことに勇気を出して挑む

元エホバの証人二世たちは抑制されることによって自分のしたかったことをできないままでいたはずだ。

しかしエホバの証人をやめた現在ならば、自分の好きなことを抑制することなくすればいい。もちろん反社会的な行動は避けて、自分の楽しいと思うことを受け入れて率先して行えばいい。

嫌われてもいいから自分のテンポ・リズムを見つけて持つ

自由を得た元エホバの証人たちはものみの塔聖書冊子協会と親、そして周囲の人の期待と言う名の楽譜を演奏させられてきた。 でも今は自分の人生を謳歌し、そして人にわざわざ合わせる必要のない自分ならではの曲を流しても良い人生を送っている。

人に合わせたテンポとリズムは自分の歩調には合わないことを知っている。ならば、それらのテンポとリズムを自分の曲調に合わせて拍子を取ればいい。 時として自分のテンポは人と合わないこともあるだろうがそれは大した問題ではない。自分のテンポとリズムで生きることでストレスレスな生き方をする方が自分のための生き方に沿ったものとなる。 友達としては自分のテンポと似た人を選べばストレスはさほどたまらないものだ。

たまに自分のテンポとリズムを確認することも忘れずに。

愛する人のために生きてみる

人は基本的に他人の中で生きることによって自分という認識を得ることができる生き物である。 自分は確かに自分のために生きてはいるが、自分ひとりのために独善的な生き方をこのブログは推奨しているわけではない。

人は孤独には弱くもろく、お金を持っていても孤独には勝てないことをZOZOTOWNの前澤社長は述べたことがある。

別に「コケ」という生物に対して太陽に当たれ、といっているひまわりの生き方を勧めているわけではない。僕も「コケ」のような生き方をしているので別段太陽に当たらねば、ということを実感しているわけもなく、ジメジメとした今の心地よい日陰に満足している。 ここで僕が言いたいのは、自分ひとり独善的に生きるよりも、愛する人のために生きてみてはどうだろうか、ということである。 人は自分に甘くなる生き物だが、ここで愛する人ができることによって強くなる生き物でもある。そして、人を愛するという事は人生に潤いを与えてその潤いが自分にも返ってくるということである。

愛し方も学び続けることが大切だ。僕もそれを今現在、進行形で学び続けている。 その学んだ結果愛した結果、僕は自分のために生きていることを実感することができている。

エホバの証人時代の時は自分の愛し方を多忙により忘れ、そしてマインドコントロールによって忌むべきものとみなされ、廃人寸前まで行ったのではないか?

僕たちは自由を得てからなにをなし得ただろうか。 自由を得てから僕は自分のために生きることをやっと見つけた気がする。その自分のため、そして周りにいる僕のリズムに合わせてくれる友達と愛すべき人たちのために生きている。