元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

「明日は死」なないんだから、神は「在る」んだから

「明日は死」なないんだから、神はあるんだから

「明日は死ぬのだから」

エホバの証人は、エホバの側に付かない人たち(すなわち世の人たち)を【明日は死ぬのだから】というカテゴリにくくり、エホバの証人をやめた人たちや背教者たちを享楽主義へといざなった。

エホバは非常に強力で、エホバの加護から離れた場合にはそういった享楽主義および快楽主義への入り口でしか過ぎないと教えられてきたが、果たして、僕たち元エホバの証人たちの過去は享楽主義や快楽主義および堕落論的な生き方をしてきただろうか?

むしろ思考の堕落をしているのはエホバの証人の側

僕たち元エホバの証人二世たちは、勤勉に働かせられ続け、自己犠牲は当たり前で、他者の目を捨てせられて同胞の人たちの視線にさらさせられ続けられた自己不在の生き方だった。いかに早く必要な大きなところで働くか、ベテルで働くかの勝負をさせられてきたのではないか?

そう、実際それらはいかに早く必要な大きなところで働いて母親もしくは両親たちを喜ばせるかどうかという競争社会での生き方でしか過ぎなかった。

これを乱暴に言えば、親が敷いたレールをいかに沿った生き方をさせ、子どもを無思考にさせ、選択権を奪い停止させた子供の思考および思想を略奪した生き方でしか過ぎなかった。

これらを鑑みるならば、僕たち元エホバの証人二世は、エホバを裏切ればハルマゲドンで滅びるといった脅しや恐喝、そして不承認といった恐怖を植え付けてきた。実際、僕のエホバの証人を辞めた実際の兄弟たちは親からの見捨てられ不安におびえて生活している。物理的にも精神的も親からのそれらの供給を必要とした生き方をしている(余談だから僕はそういった元が絶たれたとしても生きていく術を見出している)。

何がいいたいか、というとエホバから捨てられたところで親に捨てられたところで、人は明日も生きてくということでもある。

考えてほしい、過去にエホバの証人二世の『昼寝する豚』というサイトもあり、現時点でもあるし大きな本屋さんや図書館に行けばその本も置いてあるが、彼の生き方はマインド・コントロールによる生き方を余儀なくされた可愛そうな人である。最期があまりにも『自分を生きていない終わり方』だった。
当時はエホバの証人として辞めた人に対する救済がなかったわけではないが、それが辞めた人への救済ではなく、エホバの証人たちの自己都合の救済処置でしか過ぎなかったのは言うまでもない。しかし、『昼寝する豚』の彼は辞めてハルマゲドンで滅ぶという選択肢に後悔はなかったか、というと微妙な判断にはなるだろうが、僕個人としてはそれでいいという『受容』を認めていたのではなかっただろうか。
彼はエホバの証人としての不自由よりも、自由を選んだ

彼は明日死のうと思って生きたわけではない、エホバを恐れていた事実はあるだろうが、自分の生き方を捨てる選択は最期まで捨てなかった。

神はいる

実存的な神、言語的な神

果たして神はいるのだろうか?という問いに対して、その答えは人それぞれであることを承知しているが、僕個人としては神は存在している、と確証している。
かといってエホバみたいな横暴な神ではなく、道義的に正しいことを認める心の有様が僕は敢えて神と呼んでいる。

たとえば、電車の中で杖を持って立っている老人に座っていた人が席を譲る行為を見てそれをどう思うか?
人によるだろうが、僕はその光景を微笑ましく思うし、逆に恥じることもある。恥じる理由は、自分が譲るべきだったときにそれが出来なかった時だが、その恥は決して悪すぎる感覚ではなく、次回に生かせられる感情であるという認識である。それ以来、僕は目ざとく杖を持っている人に対して反応するスキルを身に着けた。

話を戻そう。『神』はいるか?という疑問に対して僕はこう応える。

『神は個人の中にある』

一言で言おう、神は『いる』ではなく、『ある(在る)』ということだ。

『神』はひとの心たちに点在し、良心という形をとったり、思いやり、優しさという形をとったりする。寄付をする人のことを悪くいう人は中にはいるだろう。だが、それで果たして損をした人はいるだろうか?否、いない。受けた側も与えた側も幸せになるシステムでもある。
中には詐欺のような案件もあるだろうが、そんなことをいっても誰も得はしない。詐欺師が9割存在したとしても、残り1割を喜ばせることに意義があるから。

ニーチェは過去に言っているがもはや『神は死んだ』今、神は誰であろうか?
僕の中では『エホバ』という神はもはや実際に存在しない神であり、彼らの言葉を借りれば『偶像』のひとつの表現と同様の、言葉遊びの言語による形骸化した存在でしか過ぎない

しかし僕たち元エホバの証人二世は神にときどきめぐりあう。

そう、人としての優しさ、思いやり、良心などに基づいた信念を目にした際、感動するその感情の中に神はいるということだ。その見出した感情から僕たちはときに成長し、ときに涙し、ときに笑いさえする。

すべてを救ってくれる神は一時しのぎの過去の産物でしかず、大小違わず僕たちの中には神がある。エゴとならない程度に。 僕たちは人の心を揺り動かす存在になることができれば、人に喜びの涙を流させ事ができれば元エホバの証人二世としてエホバという神から離れて、自分ひとりの力を人と協力しn乗にして、神にはならなくてもいいから自分の心から笑える花になろう。

進化を止めるな(希望編)

なぜ僕たちは進化しなければいけないのか?
それは停滞とは死を意味するからだ。
人はどうせ死ぬし生きる意味や意義を感じない人もエホバの証人二世には多いだろう。理由は言わずもがな自分を殺しながら生きてきたから。
しかし、もしもうもはやエホバの証人ではないならばもう自分を殺しながら生きていく必要性は皆無だ。このことについては再三述べてきたので端折る。

希望をもつのに必要なもの

進化をするために必要なものとして気力・活力を持ち、それをガソリンとして持続させるために目標・目的を持つことを強調してきたが、次に必要なものとして希望をもつことについて言及していた。ではなぜ希望が進化に必要なのだろうか。

希望なき明日には停滞と怠惰しか残らない

人はだらけたり弱くなると明日に対して戦う気力を失ってしまう。停滞は怠惰を生み、そして自滅へと至る。その怠惰に至らないで勝ち続けるために希望は非常に強力な武器となる。希望は人を強くする。さらに強い人には人が勝手に寄ってくるものである。人が人を呼び、人が自分を強くし、自分からさらに他人を強くする相互作用が働く。そのためにも希望は停滞以外の怠惰を取り除き、自分を強くする効力を発揮させる。

人は弱い。

容易に停滞へと流されやすい材料で世の中にあふれている。酒、ゲーム、ムダな情報(ゴシップなどの将来的に何の役に立たないもの)その他もろもろ。僕は酒に流されそして多くの時間およびお金を失ってきた。さらに愛すべき人をもなくしてきた。

その理由は自ずとわかっている。明日への希望がなくなったときに人はそれらに流され自己成長を抑制し惰性・怠惰へといざなわれたときに弱さを隠れ蓑にして逃げるためだ。別に逃げることは悪ではないが、自分の人生から逃げることは何の役に立たない。

逃げるためには希望も必要だ。希望を持つことは逃げるための戦略も考慮する事ができる上、さきほど述べた通り自己成長へといざないやすい循環へつなげる。ならば怠惰よりも希望を選んだほうがよいではないか?

希望を失った人に近づかない

人は希望を失いやすい生き物であるがゆえに、希望や向上心の欠如を得てしまいがちである。だが、自分の中に希望があるならならばその希望を消しやすいひとの近くに決して近づかないことが大事である。苫米地英人氏は彼らのことをドリームクラッシャーと表現していたが、本当にそのとおりだと思う。

希望や向上心の欠如は感染しやすくそして破滅などを呼ぶ。危うく僕もそれにやられるところだった。近親者に向上心の欠如したひとがいたのだが、その生き方が妥当なんだろうと激しく錯覚してしまった。でもそれは大いに間違いで、それならばまだひとりでいたほうがいいことにやっと気づいた。

僕も気が付かないうちに感染させられてしまい怠惰へといざなわれたことには全然気が付かなかった。それくらい希望を失ったひとの影響力は非常に強い。もし知り合いにそういうひとがいたならば距離をとったほうが大いに好ましい。

希望は進化を止めない起爆剤

ここまで述べたら多くの人は気づいているだろう。希望も結局はエネルギーの異種であってほかの気力・活力・目標・目的とほぼ等価であって、希望はさらに一歩先にいった重要なエネルギーのひとつだ、ということだ。希望は怠惰を避け、強いエネルギーを呼び寄せる円環の無限増殖の価値を生み出す。

ゆえに希望は非常に重要なもので(でも最初からこの希望を持つことはできないことを前述の進化を止めるなシリーズでのべたが)、この希望を失うことでひとは平気に落ちることも可能だ。ただこの希望を手にいれ自分の成長へとペースに乗せることができるならばもうエホバの証人二世時代とはさよならしたことを認識していいものだと思う。

僕もこの希望を失わないよう、僕より希望エネルギーの強いひとたちと会いにいく。

進化を止めるな(目標・目的編)

そもそもだが、目的や目標を持つことなんてかなり難しいことである。エホバの証人二世には目的なんて持てる精神状態はなく、親たちに強いられたレールの上を走らさせられるだけの人生だったがゆえに生きることだけで精一杯だったのではないか?

でもそこで敢えて僕はこの目標・目的を持つ意義について言いたいのは、自分の人生をこんなブログを見ている人に言いたいからだ。

人はいずれ死ぬし、生きている途中で病気および怪我をして思う存分に生きることなんてできるはずもない。そもそも論だが、人は満足に生きることなんてできるはずもない。孫たちに囲まれて幸せに大往生できる人生は今の所僕は見たことがない。孫がいるからといって人は幸せにつながるかといわせてみればそれは嘘になる。孫がいても懸念材料が増えるだけだ。

それでは目標・目的の意義はなにか。それは自分のエンジンへのガソリンにつながることだ。 以前気力・活力について言明したが、これはガソリンの元になるものであってガソリンの本質のものではない。本当にガソリンとなるものは目標・目的が明確化されたものであって、それらがうまく機動することから生きている実感を得られるものである。

以前の記事ではお猪口程度のサイズで気力・活力を持つことができるか、ということを書いたが、目標・目的が明瞭化することから人はそれらを持つことができることについては明言しなかった。そう、人は目標・目的を得られれば強くなれる

では目標・目的は何にするべきか、それは自分で決める事であって僕が決めることではない。余談だが、僕の目標と目的は愛する人とともにいることである。捨てられるならそれで構わない、僕の愛し方が下手過ぎただけのことだから。でもそんな僕の愛し方を理解してくれる彼女や親がいる。それで僕は満足だ。

これが僕の進化論だ。エホバの証人的な愛し方なんてくそくらえ。愛し方をご丁寧にご教示頂いてもそれは本質的な愛し方なんかじゃない。自分の形の愛し方こそ本質的な愛し方だ。まだ宮沢賢治的な愛し方の方こそ本当の愛し方だ。僕はそういうものになりたい。

進化を止めるな(気力・活力編)

興味深いことにこの元エホバの証人二世のサイトは、20代のアクセスはさほどなく 30代40代に集中している(Google Analytics の年齢データによる)。 今の20代はもはやエホバの証人の「畏怖の念」という概念はなく経済がすべてを左右することを把握した親の持ち主の子供たちだったのだろう(なぜ子どもたちと断定するのは、このサイト自体一世をターゲットにしていないから)。 ゆえにこのサイトエホバの証人二世であるこのサイトを見ている人たちは、いまだに傷が癒えていない精神的重症な方か同感により何かしらカタルシスを得られる人たちなのだろう。 その分析はまだ満足にできてはいないが、アクセスしてくれるだけで個人的にはとても嬉しいし個人的にはもっと認知してくれることで傷を負っている人たちにとっての癒やしの存在の場所になれるよう尽力したい。

それにしても、その中年に差し掛かる世代となっても、傷は癒えるどころか深く染み入ってしまったものであれば容易に完治するものではないことを僕は知っている。僕自身もそうだったから生きる意味に関する書籍を読み漁ったくらいだ(余談だが、最近では「ホモ・デウス」などがオススメだ)。

ではどうやって心にえぐり刺さってしまったこの槍を抜いて、さらにその貫かれた傷を治すことができるのだろうか?

進化する

エホバの証人は進化論を否定することによって神の存在を覆させないものへと昇華させてきた。進化論を認めてしまえば神は不要で傲慢な存在であることを意味する。それは意地でもものみの塔聖書冊子協会は否定したいことだっただろう。 さらにいえば、その進化というワードはものみの塔聖書冊子協会にとって信者の操作性を失う存在へと化けさせる。それほど「進化」というものは危険で、逆説的にいえば信者からすると自由へとつながるパワーワードだったのだろう。

しかし僕ら元エホバの証人二世は進化するという自由も選ぶことができる。それならば進化したほうがいいが、そう簡単にできるものではない。進化をするには以下のものが必要となる。

  • 気力・活力
  • 目標・目的
  • 希望

これらについて何日かに渡って書いていこうと思っている。

元エホバの証人二世の『気力・活力』

心理学の用語で「セリグマンの動物実験」というものがあるが、これは日本で言えば『学習性無力感』というものであり、人は回避できない状況の苦しみが続いていると、その場から離れるという判断ができずその場に留まってしまう。 エホバの証人二世であればこの気持ちは重々理解できるものでないだろうか。 僕たちエホバの証人二世はこの苦しみを経験し続けたゆえに脱エホバの証人という判断ですら奪われていた。精神的な苦しみを経験させられ続けることしかそもそもできなかった。

今、元エホバの証人二世となったとしても、奪われた幼少期の頃から培われ続ける気力・活力の器はとても小さく満たされても、一般人から見ればおちょこほどの気力や活力しか持つことができない。そのおちょこ程度の気力・活力でどうやって次の段階である『目標・目的』というものを持つことができるだろうか? ただ日々を生きるだけの生活から「目標・目的」なんて容易に見つかるわけがない。電車の中の状況を知っている人は知っているだろうが、ほとんどの人がスマートフォンでなにをしているだろうか?だいたいの人たちはゲームではないか?もちろん中には LINE や twitter など SNS を楽しんでいる人もいるだろうが、これもある意味同系列なものであると僕は思う。共通していることは虚構の空間での自己実現及び、虚構の承認欲求である。ではなぜ働きそして勉強に疲れた人はそういった仮想の世界に潜り込む事ができるのだろうか?それはエホバの証人二世たちのように精神的無気力状態になったからだ。 やりたくもない仕事、したくもない勉強。それを強制させられて使役させられているのであれば人は気力を失う。その癒やしの手段として手近な虚構の世界を誘うのだと思う。

もし電車の中で気力・活力にあふれている人ばかりならどうなっているだろうか?みんな移動の時間を使って勉強したり副業的なことをしたり自分を高みへと誘う書籍を読みまくっているのではないか(逆にこれはこれで地獄絵図な気もしないが)?

人は気力・活力がないゆえに自分を容易に辛くても今のままを停滞させるようになっている。それほど気力・活力は大切なものだ。

ではどうやっておちょこ程度の気力・活力の幅を広げる事ができるだろうか?

余裕を持つことである。

その余裕の源泉となるのは人により異なるので断言はできないがこれだけは言える。世間体を意識すればするほど気力・活力は奪われ萎縮していく。ならどうすればいいかは言わなくてもわかるだろう。世間体を持たず自分の思うままに生きることだ。簡単に言っているがそんなことはできるはずがない。ただここで断っておきたいのは自由に生きるために自分を犠牲にしまくる必要はないということであって、ルール規範は守らねば結局は自分に返ってくるのでオススメはしない。この場合の世間体というのは強制的に強いられた「社会的道義」のルールであって、それを破ったとしても制裁が加えられないものである。

たとえば、離婚することは果たして悪だといえるだろうか?世間的にみて離婚された男性は何かしら不具合があってさせられたと判断するであろうが、それは世間が勝手に考えることであって自分が決めることではない自由がある。

昔では同性愛は禁忌とされてキリスト教世界内では『罪』とみなされてきた。だがしかし、今はどうだろうか?ダイバシティが当たり前だとみなされることによって同性愛もテレビで堂々としている人もいるし、性の多様性が認められたことから自由を得られた人も多くいる。 世間体といったルールは簡単に変わっていくもので不変的なものではないということだ。

では世間体といった気力・活力吸収物質のためになにか僕たちはしなければいけないことはあるだろうか?世間体といったブラックホールに関わっていつづけることは結局のところエホバの証人時代と同じことであって、無気力にさせる自分を生成することではないか?ゆえに世間体といった感覚に自分をあわせるのではなく、気力・活力を生成するために自分を持ち続けよう。そして余裕を持つために勉強する働くといったことは問題ない。それが次の『目標・目的』につながるから(続く)。

ひとの愛し方ってなんだろう?

人の愛し方について

端的にいうとこういうこと。

  • 自分の愛されたい方向で人を愛するな
  • 物理及びサービスの提供者であるな
  • ありのままの自分でいてくれることを許してくれる人とともにあれ
  • DV(物理はもちろん精神も含めて)は論外

自分の愛されたい方向で人を愛することの害について

人の愛し方は愛されたい方向性と酷似している。

人は愛されたい方向性があり、そして、その方向性に伴った愛し方をすることは比較的得意だが、他人はそもそもその愛され方に慣れているとは限らない。過剰・過度の愛し方に慣れているのであれば自分の持っているいわゆるエホバの証人的自己犠牲の愛し方は有りだろう。 だがしかし、それは相手がもしそれを求めているのであれば、自分は将来的に疲弊してゆき、後々自分の存在について非常な疑問を抱くことになる。すなわち自己犠牲有りきで人を愛するということは自分の存在を皆無なものありきであって、愛されることには一切つながらない。

愛することは自分の愛されたい方向とは決して異なる。 愛したい相手がエホバの証人であればそれはある程度トレースできる生き方ではあるであろう。しかし、相手がエホバの証人時代でいう「この世の人」という人たちであれば、エホバの証人時代の愛し方すなわち自己犠牲的な愛し方は気持ち悪いものである。心理学者アルフレッド・アドラーの言っていたゲッターという人たちであれば、それは大好物な方たちではあるが、それらの人たちは自分の愛し方を利用する人たちすなわちあなたは利用されては棄てられるツールのひとつと化す。 そういった利用される立場になりたい人であればいいが、そんな生き方は正直いって唾棄すべき生存方法である。

物理及びサービスの提供者であるな

人は物を受け取ったりサービスを施されたりすることによって、提供者は自分の価値を高めることがままある。だが、それは自分の存在価値を放棄しており、物およびサービスありきの自己実存でしか過ぎない。

愛することはそれら物及び快楽の提供では一切ない自分が自分で居ていい理由を相手が与えてくれるものである。

ものでしか相手を喜ばすことができないのは自分がその程度もしくは、相手がその程度の悲しい存在である、ということである。

ありのままの自分でいてくれることを許してくれる人とともにあれ

今、あなたが奇声を上げたとしよう、その際あなたをパートナーである人はどのように反応するだろうか?

  • 憤る
  • 怒る
  • 否定する

もし上記の方であれば愛されていない証拠ではある。 奇声を上げても相手が驚いて心配してくれるのであれば愛されていることになる。あなたは信頼口座を十分に得ている証拠でもあり、そしてそれはあなたを思いやっている事象でもある。 本当の愛は相手がどうなろうとも受け入れてくれる。相手を承認できる存在で有り続けてくれる。そんな人に好かれよう。

DV(物理はもちろん精神も含めて)は論外

ことにエホバの証人二世は、物理的な虐待はもちろん精神的な虐待に対する耐性はそれなりに備えられている。だがそれは自分を将来的に精神をすり減らせる材料にしかほかならない。

厳密にいえば、日本のエホバの証人は二重の苦しみを受けている。それは

  • 罪の意識
  • 恥の意識

の両方が介在している生き方を強いられてきた。

罪の意識は聖書及びキリスト教世界から入れられたものであり、恥の意識は日本固有のもので、それを得る(恥をかく)と人として否定される生き方だ。僕たちエホバの証人二世は罪と恥の概念を刷り込まれそれを強く意識させられ生きてきた。

でも考えて欲しい。

元エホバの証人であれば、罪の意識なんて持たなくてもいいじゃないか。

さらにいえば、恥の概念はそもそも必要だろうか。

それらの意識は過剰に自己のエセ高みに委ねた生き方であって、本来の自分とは一切関係のない、いわゆる他者が形成させていた弱さを隠すための概念でしか過ぎないのではないか? 人は弱いし恥を隠し間違いもするし罪も犯す。しかしそれらは自分を高めそして強くしていく。 強くしていく材料を自ずと放棄する必要なんてあるだろうか? 確かに他者に対して傷をつけてはいけないけど、自分を傷つける行為すなわち転んで立ち上がっていく行為に意味はない、と果たしていえるだろうか。 ころんだ数だけ早く確実に立ち上がれただろう。 どんどん失敗して転んでいけばいい。

立ち上がれるなら、それが強さだ

話がそれて申し訳なかったが、人を傷つける行為に対しては自分を傷つける行為にしかならないので端折ってしまった。

自分を大事にしたいのであれば、エホバの証人二世であれば、肉体的精神的な他者への虐待は意味をなさないことを重々承知しているだろうからなにもいわなくても理解しているだろう。

愛し方が相手にハマった時の満足感

人の愛し方を自分なりの形で学んだ時、そして自分の愛し方を相手が受け入れてくれた時、その喜びは半端なく嬉しい。 それはとても自分を嬉しい思いだけでなく、自分の必要性について理解できることになる。

愛され方を理解する前に愛し方を理解することはとても難しいかもしれないが、人はそもそも愛し方なんて最初からわかっていないものである。 ましてやエホバの証人二世なんて聖書マニュアル及びものみの塔聖書冊子協会的愛され方しかわかっていない。そんな愛し方は一蹴してしまえ、と僕は断言する。

娘息子じゃない限り、自己犠牲的な愛し方でしか自分を愛してくれない人は本当はいらない。 自分の愛の形を受け入れてくれる人を、頑張らない形で愛しつくそう

そして今の僕(エホバの証人後)

結婚を迫られ離婚された

結婚生活は15年も続いた。

元嫁はいわゆるこの世の人で、大分以前の記事で言及したが結婚する当初はこちらから結婚を促したのではない。元嫁から『結婚しなきゃ死ぬ』という善人に対して効果的な脅迫をしたことから起因する。

しかしこの結婚生活は僕が望んだものではなかったので、元嫁からの強制からエホバの証人を離脱し元嫁との生活を選んだ。

そこでやっと自由が得られたと思ったがそうではなかった。

元嫁からの束縛はより一層強くなり、僕がお金を稼ぐことができる様になると引っ越しをやたらと促すようになった。 僕自分、引っ越しをすることは好きでなかったが、元嫁の発言権は非常に強く案の定、自分の死をそそのかすことで僕を脅迫することに成功していった。そういったことの積み重ねにより僕は精神的に摩耗していく。

エホバの証人時代のフラッシュバック

経済的に成功していくのは良かったが、成功することによってできるのは自由な時間だ。その自由な時間は過去の自分を想起させ、そして辛かった過去の自分を呼び起こす。いや、呼び覚ます、といった方が正しいだろう。

やがて僕はエホバの証人時代のことを思い出していくことによって自分で自分の首を締めていった。

自由とはなにか、自分とはなにか、お金とはこんな簡単に手に入っていいものなのか etc... そういった思考の順繰りが苦しめることにつながっていった。

家庭環境のフラッシュバック

そして家庭環境も決してよかったとはいうことができなかった。

僕は母親に少なく愛され、そして兄及び弟は深く愛されていた。以前の記事でも述べたが僕は次男なので少なくしか愛されない旨を母親から直接いわれたことがある。それくらい僕は他愛もない存在だった。

そういったことを思い出すことにより、僕は自分を真綿で自ら自分の首を締めていくことになる。

それからの精神障害

過去を思い返し、そして辛かった自分を思い出し続け、そして仕事に多忙を極めることによって僕は自分を追い詰めていくことになる。人間は多忙による精神的摩耗には耐えられないし、癒やしを与えてくれる存在がない限り頑張り続けることはできない仕組みになっている。誰かのために生きよう、と思っても子供もおらず(というよりもどうせ不幸になるだろうから作らず)、ただタスクをこなしては元嫁及び人の機嫌を伺い続ける生き方をしていた時代でもあった。

そういったことの積み重ねにより、僕は精神病院の戸を叩くことになり、さらに入院するという経験もすることになる。自殺未遂も行い、もはや生きている理由なんて何も見出すことはできなかった

それから僕は惰性的に生きることを選び、そして元嫁のことを愛している錯覚から生きようとは思うも、違和感のある生活を送り続けそして自己を否定する生き方を過ごす。

これは結局、エホバの証人時代の生活と大差ない。 さらにいえば奴隷状態という共通点があり、そしてその奴隷状態にしていたのはエホバの証人時代のルールが無意識に自分の中で形成されていたことからくる自縛でしか過ぎなかった。

それから僕は自分を殺す生き方をし続け自分をごまかし続ける生き方をすることになるが、乖離を経験することから僕は不貞行為を行ったということで離婚を宣告される。もちろん僕は不貞行為を働いた記憶などなく、今現在の状況(元嫁が就労支援センターで知り合った男性との間に子供ができたこと)から察するに虚偽なのかもしれないと思うも、僕は結果的にあるものを得ることができた。

離婚されたことから得られたこと

こういったことから僕は離婚を経験することになるが、僕はエホバの証人時代から継続していた自分という生き方をようやく得ることができた。自分としての生き方を許される、というのは自由の特権であり、その自由により僕を不安にさせることはなかった。

自由

人は急減な自由に対して不安を感じると、とある書籍で読んだことがある。しかし、僕はそう思うことがなかった。自由により僕は勉強する時間を手に入れスキルも手に入れ、自分に正直に生きていい権利を獲得し、そして気兼ねをする機会をなくすことに成功した。

自由は人を羽ばたかせるだけではない。人により不安に思うこともあるかもしれないが、僕は思い通りに生きても構わない、制限のタガを取ることがやっとできた。

年齢にして38歳。僕はやっと自分の時間と価値観を持つことができた。

自分は自分でいていい理由を知ったこと

離婚されたことから得られたこと、自由以外には自分は自分でいていいということだ。 自分は夫だから、自分は父親だから、自分は上司だからetc... そういった束縛を僕は持っていない。そこから僕は柵をなくすことができ、そこから自分は自分の思う自分でいていいんだ、と思うことができた。

愛されるために頑張るのは間違いであること

人は孤独に弱く、金持ちですら孤独を避けるために twitter をしたり愛してほしい人に貢物を施したりしている。しかし、そういった行為には意味はなく、愛されるために頑張るというのは自己実存の放棄である。自分のままでいることを棄ててまでして愛されたい、というのは強さじゃない。愛したいことで自己実現することが本当の愛であり、愛することで愛は勝手についてきてくれるものだ。愛さない限りサービスやお金じゃ愛は得られない。

それに愛することの方が楽しい。そう、愛することは聖書にはなく自分と相手の中にある感覚が作り上げるものであって、人生に指南書はあれど絶対的なマニュアルなんてない。 他人及び「神」を絶対視することは結局のところ裏切られ自分をも裏切ることになる。最初から自分を信じてミスりまくる人生の方が実際成功は多いし、自尊感情はあとからいくらでも身についてくる。

今現在

愛すべき人の側で仕事ができる満足感

今、この記事を僕は愛している人の隣の部屋で書いている。もちろんその人は僕を愛してくれている保証なんてどこにもないし、僕が勝手に愛したいから愛しているに過ぎない。たとえ僕の元から離れようとも、僕は後悔しない生き方を選んでいるつもりだ。

僕は愛すべき人にやっと会えて僕から愛している旨を伝えている。愛されなきゃ死ぬと脅迫する人ではなく、思いやりに富み、優しさにあふれている(ただし打たれ弱いのでそれなりに気は使うが)。しかし、今の愛すべき人は仕事をしている僕をも包含して思いやってくれる。それが僕にとって新鮮で最初は違和感を禁じ得なかったが、今では当たり前のように仕事をさせてくれる彼女に感謝している。

人も仕事を呼ぶが、自分のスキルが勝手に仕事を呼んできてくれる

自分の思うように仕事及び勉強ができるということは非常に素晴らしいことだ。元嫁とは寂しいから仕事しないでとか一緒になにかしなきゃ嫌だ、という脅迫的な関係であったが今はそんなことをいう人はいない。彼女は僕に仕事をさせてくれる。当たり前のことといえば当たり前だが、それが逆に僕を成長させてくれた。

今までできなかった仕事もできる自負を得ることができ、その結果多くの仕事をこなすことに成功した。さらにその仕事は次なる仕事を呼んでいってくれた。彼女は僕に仕事を選ぶ自由まで運んでくれた。今までできなかったことをできる様になると人は自由と余裕を得られるようになる。僕は仕事を選べる立場にまでなった。

愛されるために愛するよりも愛されなくても愛すること

ストーカー的な一方通行の愛し方はいらない。ただ、愛することは人に自由を与えそしてチカラも得ることができる。頑張れる自分を形成していって気がつけば頑張ったことにならなくて、それが成長になっていって楽しいことにさせてくれる。 人は強くなると楽しさしかない。そして弱くなることを考えて弱くなるが、強い人はより強い人と会いたがる。僕もそんな感じだ。

でも自分の弱さは見つめてはいる。だがそれは克服すべきことで克服した時の達成感はとてつもなく心地よい。僕は自分のバグフィックスを楽しんでいる。

自分のいる世界、唯一の must

人は自分のいる場所、居た場所を「すべて」だと思っていないだろうか?

実は自分が居た世界というのは「一つの社会」という枠組みでしか過ぎず、下手すれば社会ではなく村ですらない狭量なカラム(一区切り)ですか過ぎなかったのではないだろうか? 例えば、ネットの世界で言えば2ちゃんねる(現5ちゃんねる)や Twitter、Facebook の中にどっぷりと浸っていれば、そこの世界での発言が全世界の意見と捉えたり、街、集会、家族、兄弟といった枠組みに矯正されていれば、そこでの視野が絶対的なものと思わさせられる。

そしてエホバの証人王国会館といったグループに居た時にはそこでの見方は顕著で、外部に目をやったり「この世」に関する情報を完全にシャットアウトさせられ、狭量な視野を持たざるおえなかった

自分の世界をそんなに狭くしていい理由はあるだろうか? そしてそこでの見方は絶対的な観点からすれば正しいと断言できるものだろうか、そして何よりも狭い視野を持たなければいけない理由を自分で勝手に作っていないだろうか

「井の中の蛙大海を知らず」

「世間的に見てこれが正しい」「世界はこういう見解が当たり前」「エホバはそれを悪とみなしており、絶対的にいけないこと(もの)だ」。 それらは自分の視野を狭くし、生き方を強制的に小さくさせる見解でしか過ぎない。

「井の中の蛙大海を知らず」といったことわざがある。

井戸の中のカエルは井戸の世界が全てだと思ってふんぞり返っていたとしても、その井戸の世界は狭い世界でしかなく大きな海の存在を知らない。 大きな海の存在を知れば自分がちっぽけな存在であることを嫌でも知ることになるだろう。

では、僕たちは井戸の中に居続けていいのだろうか? そして大海を知らなくてもいいのだろうか? 答えは言わなくてもわかるだろう。井戸の中は狭いカラム(一区切り)でしか過ぎないゆえに海の存在を知らなければ自分の視野を広げることはできない。

さらに言えば、海よりも大きな存在である地球・太陽系・銀河・宇宙といったより大きな物の存在があることを知る必要がある。そういったより大きな物の存在を知り世間知を広げた方が人生は得する仕組みになっている。

なにも世界に飛び出さなければならないといったことを言っているわけではないが、自分の居場所を局所的なものにするのではなく、点在させたり今いる場所以外にも自分が居てもいい場所を作り出していく必要がある、ということを伝えたいだけだ。 そう、自分を狭量な価値観しか持てない人間にする必要性はどこにもない。エホバの証人時代は価値観の強制と矯正があったが、元エホバの証人やその二世たちには自分の価値観をエホバ及びものみの塔聖書冊子協会に合わせなければならない理由はどこにもない。 自分で作り上げていった価値観を認め、そして失敗したりコケたりしたとしても、それらのミスはこれからの自分をより良くするための糧になる。 失敗を恐れて人に敷かれた道を歩き続ける理由なんて一切ない。

そして、自分で作り上げた価値観及び居場所には敵対する勢力が必ずといっていいほど存在するが、それは当たり前だと思って構わない。 万人に好かれ、一切嫌われないといった生き方は不可能なので、自分のコンフォートゾーン(心地の良い場所・空間)に居続ける必要の方が非常に大切なことであることを深く認識する必要がある。 ゆえに自分の居場所を敵及び過去に知っていたエホバの証人たちが存在するとしても一切気にする必要はない。

世間知を広げ、そして自分の持っているもの・ことを世界に広げていくことから人生の価値を作り出し見出すことができる。 自分はこうでなければいけない、こういう道徳性を持たなければならない、といった must(必ず〜でなければいけない) を自分に持つことはもはや必要ない。 したいことやものを自分の中で持って作り上げて、幸せにならなければいけない理由(唯一の must )だけを絶対的なものにしていった方が強さは否が応でもついてきてくれる。