認知症になって精神病院で看取られず、最終的に孤独に死んでいった母
やっとのことで、母が死んだ
母の死は最近のことではなく、今から一年以上前のことになるのだが、母は結局、認知症になり、精神病院で親族にも、家族にも、友達にも看取られることなく、最期を迎えることとなった。
そもそも看取ってくれる友達なんてその場にいるはずもないではあろうが、いろんな人を巻き込んで苦しませた結果としては至極当然な最期ではあるな、と個人的に思う。
母が死ぬ前の経緯
母は認知症になる前に、僕たち家族が長年過ごした大阪ではなく、それなりに離れた兵庫県明石市で生活保護を受けていた。
エホバの証人としてかは不明だが、少しでも離れたところで生活することで「恥」をかきたくなかったのだろう。母はプライドは高く、そして自己中心的過ぎた人間だった。
そして、何をしてきたかの情報もなく、弟が明石市で認知症になった母を見て救急車を呼ぶに至り、弟が住んでいる家の近くの大阪の精神病院に搬送されるに至った。
そして興味深いことに、その病院は僕の元妻が僕と結婚する前に入院したことのある病院で、いろいろと政治的にもイデオロギー的にも特色のある病院だったのを覚えてる。
そして母は、その病院を一歩も出ることなく、独り死んでいった。
母の葬式
僕は母の葬式には不参加だった。
葬式の不参加を父に伝えたときは「来てください」と懇願されたがそれでも行かなかった。
それがせめて母への復讐でもあった。そんな母を愛されず憎まれていた息子がいたことを親族の方たちはどう思っただろうか?
親不孝か? 当然か?
母親の親族ですら母親にいろいろと危害を被られてきた経験から、おそらく後者の捉え方をされた親族の人もいたであろうことは容易に想像はできる。だが、母の最後に花を供えることは想像もできなかったし、そして嫌悪の気持ちから、憐れんで悲しんで送っているポーズですらもできない、自分の頑なな心に対して自分ながらに呆れもするし、そこまで根が深かったんだな、という感想を持ったりもした。
通夜には行った
ちなみに葬式には行かず、その前日にあった通夜には行った。
母の遺体と対面したのだが、僕がよく会っていたあの太っている頃の母の面影はなく、その痩せた姿は今の兄に似ていた。
自分に似てたら、そりゃ僕よりも兄を優先した生き方をしたくなるわな、と正直に思った。
そして父の信仰している密教のご友人が、遠路はるばる東京からわざわざ来阪し、母の通夜にまで来てくれた。そして、その密教の所作の一つであるお経を通夜に詠むためのロウソクなりの小道具を、僕は近所のコンビニでパシリのごとく買いに行った。
皮肉な話、「エホバの証人」として家族を崩壊させたのに、最後は異教の方式で、さらにその息子の元エホバの証人の2世が率先してそれに加担しているのをもし母が見ていたらどう思っただろうか?
神が死んだ今となっては、もはやどうでもいいことだ。
結局は孤独死だった母
いろんな人を振り回して、破壊し、そして最終的には独り死んでいくというのは当然ではあるが、結局のところ、彼女は何がしたかったんだろう?
絶大な承認欲や、金銭欲から、彼女は何を学び、そして何を得たのだろうか?
死んだ今となっては分からないが、この記事を書いている今でもよく思い出す母からの言葉がある。
「お母さんは間違えないからね。」
おそらく母からすれば自分は間違えない絶対的な存在だったのだろう。絶対神であるエホバのように。
だが、結局は孤独に死んで、イエスさながら三日後に蘇ることもなく、死んだ直後に大地が揺れることもなく、ただ、静かにこの世を去った。
僕の家族の中の神は、物理的にようやく死んだ。
家族だけでなくいろんな人たちを振り回して、機能不全家族にさせた母は、やっといなくなった。
今となってはあまり思うこともないが、「生きている」という場合と「この世からいなくなった」という場合では僕の中の感覚は全然異なる。
生命維持装置を付けたまま生きているところで、僕に対して何もすることもできないではあろうが、母の死を通してようやく、心の重荷を下ろすことができた。
完全でも絶対的なものと称していた神の死は、結局あっけないもので、そして絶対性はなくなった。そして、歯になにか挟まった感覚も消えて、母の死によって本当に自由な感覚をある程度、取り戻すことができた気がする。
また、余計なことと思うかもしれないが、生命維持装置に取り付けられた母の存在だけで税金なり労働力なりが使用されてきたが、ようやくそれらの負担もかけられることなく、この世からいなくなったから。それからも解放されたのは喜ばしいことだった。
母はエホバの証人として生き続けることもなく、ただの無宗教として果てた。
「エホバの証人」とは何だったのだろう?
「エホバの証人」として生かされた、あの頃は結局何だったんだろう?
何事にも無駄はない、という事実は知っているが、それに価値があったから再び経験したい、というドMな発想は僕にはない。
バブルで暇を持て余して、何かしらの仲良しクラブとしてただ、「エホバの証人」という場が提供されたから、母はそれに子供たちや家族の今後のことも考えず参加しただけなのだろう。
「エホバの証人」としての生き方には、最終的に母に何ももたらさなかった。
「被害者」として他者を恨み、そして認知症の恩恵を受けて空っぽのまま死んでいった。
そして残った僕たち家族は、お金を吸い取る母が物理的にいなくなったことで、お金が貯まってきたという事実に何をどう思えばいいのだろうか?