元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

母について3

久しぶりに母について書こうと思う。

父の話によると母は2019年3月24日現在、精神病院に入院しているらしい。
どうやら担当の先生にお茶をかけたり精神的に不安定だったりと、いわゆるヒステリー状態に陥っている状況なのだろう。母の入院しているところに父が面会に行ったところ、精神的に会える状態じゃないということでそのまま帰ったとか。

エホバの証人として働いていて『14万4000人に選ばれた』と言われた(いや、当の本人が言っていた)人の末路が赤軍をかくまったと言われている精神病院への入院というのも何かしら感慨深いものがある。
誰も幸せにせず、子供たちを含め周囲を不幸にし、そして当の本人も幸せになっていないことを考えるといったい僕の母親はなんだったんだ? というやるせない気持ちになる。

僕は母が幸せになることを一切望んではいないが、ありとあらゆるものを荒らし壊し砕き不幸しか呼ばなかった彼女の行動および心情は一切許せない。

ときどき、心を開いている人に対して母のことが大いに嫌いである旨を伝えるのだが、人の反応はさまざまで概ね「母親のことを悪く言ったらダメだ」という言葉で返ってくる。一部「わかる」と言う人もいるのだが、前者の反応をする人は母親に恵まれた幸せな人なんだろうという認識しかない。後者の理解を示してくれる人の親はやはり残念な人が多く、ときに精神を患っている人であることもあった。

エホバの証人の親を持って幸せになっている人も中にはいるかもしれないが、それでも不幸になっている人の方がはるかに多くいると僕は思う。

今日17時45分現在、母について思い出した事がある。
夜に中学生および高校生(安定のNHK学園時代)の頃、いつも父親に対してヒステリーを起こしていた。

その声で寝られなかった。母はその声が近所にも響いていたことに気づかなかったのだろうか? そして後に睡眠障害にさせられた僕に対してどう思っているのだろうか。おそらくなにも思ってはいまい。むしろ自分が被害者である、という感覚でしかないだろう。そんな母のヒステリーの声を聞いていたので、元妻との間に子供を作る事はできなくなってしまった。

僕は反出生主義にならざるおえなかった。

ビッグ・ファイブという心理診断を知っているだろうか。
http://www.sinritest.com/bigfive.htmlで調べることができるのだが、僕の結果は以下のとおりである。

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僕のビッグ・ファイブの結果

一見僕という人間は普通の人ではあるが、僕だけでなく元エホバの証人の二世の人たちは、この誠実性の数値が高いのではないかと思う。使役させられた過去からこの誠実さがないと親に打たれるという経験がそうさせたのではないだろうか。

この誠実性の数値が高い人はお金にこまることがあまりないらしい。真面目だからキチンと働くからだろう。なにが言いたいかというと、エホバの証人の二世という経験から僕たちは得たものが必ずあるということだが、受けさせられてきたトラウマや深い傷の割には合わないということでもある。

子供の頃、自由に遊びたかったのではないだろうか? 勉強して大学に行きたかったのではないか? 恋愛をしてそこからいろいろな嬉しさや楽しみを感じたかったのではないか? やりたいスポーツをし、聴きたい音楽を聴きたかったのではないか?

僕たち元エホバの証人二世はその経験を親に奪われた。今強制的に持たされたこの「誠実性」なんかよりも、過去にこれらの経験をして失敗や成功をしたりして豊かな人生を送りたかったのではないだろうか。

しかし、それらはもう過去の話だ。『「苦しい」が「楽しい」に変わる本』(樺沢紫苑著)という本のP.65にはこのように書いてあった。

変えられないものの典型は「過去」と「他人」です。 ......解決できない問題だったなら、そのことで悩むのは最大のストレス。 そこで悩んでもしょうがありません。

過去を変えることはできないし、僕は母を変えることはできない。樺沢氏はP.64でこのようにも述べている。

「変えられないもの」を変えようとする努力は、残酷な表現ですが、「無駄な努力」なのです。

ムダな努力をしてムダにエネルギーを費やしても意味はない。
ストレスホルモンであるコルチゾールをムダに分泌させたところで何も変わらないどころか免疫力低下気力低下など自分をいじめ苦しめる結果になってしまう。

僕たち元エホバの証人二世がすべきことは後悔ではなく、この過去の辛さを優しさへと変化させる強さを持つことではないだろうか。その優しさは人への優しさはもちろん、自分への優しさも含まれている。

過去の怒りではなく、慈しみを自分に向け哀れみを持つこと。これが人への優しさを示すための第一歩だ。自分をいたわる気持ちは決して悪じゃない。エホバの証人の間で強制・矯正された自己犠牲の精神こそ他人を見下す悪の感情だと今になってまざまざと感じる。

僕たちはもう人を差別したり見下したりはしたくない。壊れた母を持つ僕はもう母に対して一切期待はしていない。そして過去を振り返って怒りの感情を持つこともしていない。
母みたいな人になりたくないから、僕は母を反面教師にして人間的にいっぱい前進していきたい。

「苦しい」が「楽しい」に変わる本 ~ 「つらい」を科学的になくす7つの方法~

「苦しい」が「楽しい」に変わる本 ~ 「つらい」を科学的になくす7つの方法~

自分の運命の主人は誰か?

僕たちエホバの証人二世は、ずっと誰か(母親かもしれないしエホバという存在しない神かもしれない)のために使役させられてきた。
それは確かに悲しいことだし腹立たしいことだ。だが、エホバの証人を辞めた今、僕たちはもう親のためやらエホバのためやらのために生きているわけではあるまい。僕たちは僕たちのために生きる権利を有しているんだ。

幸福優位 7つの法則』という本がある。
この本はポジティブ心理学に関する本で如何に幸せになるためどのようなことをすれば良いか提言してくれている(ものみの塔聖書冊子協会が提供している本の数万倍素晴らしいことが書かれている)。

この本の一説にはこのような文章がある。

自分が自身の運命の主人であるという感覚は、幸せと成功をもたらす最も大きな推進力となる。

『法則5 ゾロ・サークル - 小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる』という章の一文だ。この文章に僕ははっとさせられた。
僕たち元エホバの証人二世は、自分の人生を親・他人・存在しない神のために自分を犠牲にすることを当たり前のことだと矯正させられてきたが、その矯正は果たして僕たち元エホバの証人二世たちを幸せおよび成功へといざなってくれただろうか? 断じてない
自己不在にさせた挙げ句、心に傷を残し、いまだにその傷口から血が止まらず流れている僕たち元エホバの証人二世を果たしてものみの塔聖書冊子協会は幸せにしてくれただろうか? さらに言えば自分が自身の運命の主人という当たり前の感覚を捨てさせてきた彼らは、自分たちの人生を謳歌していると端から見て実感できるだろうか?
彼らの目は死んでおり、そして元エホバの証人二世だった頃の僕たちの目も死んでいた。思考を停止することを促し、そしてそれがいかに幸せか説いていたが果たしてその時の僕たちは心から幸せだと思っていただろうか?

僕たち元エホバの証人二世は大いに打ちのめされ、無意味に迫害されいじめられ、立つこともままならない心の深い傷をつけさせられ、そして自己不在へと昇華させられ奴隷のごとく自尊感情を持たされずに生かされてきた。そんなところに幸せなんてあるはずはない、ただ僕たちの後ろには心の血痕が続いているだけだ。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」とイエス・キリストは言った事になっているが、マゾでもない限りそれは今となればなんの価値も生み出さない。インターネット社会の現在、左の頬を差し出せば第三者から拳銃で打たれるような世界である。昔であれば意味はあったかもしれないが、そういった自己犠牲(広義的な自己不在)は現状『心の自殺行為』である。心を砕いてなんになるだろう? そしてそれになんの価値があるだろう?

今現在、僕たち元エホバの証人二世は、もう終わった人生を生かされているのだろうか? 落ちるところまで落ちてしまった僕たちはもう終わってしまったのだろうか?

幸福優位 7つの法則』という本は厳しくともこう書いてある。

挫折を「この世の終わり」ととらえるなら、その通りになる。

しかし、この本の作者は続いてこのように言っている。

『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』を書いたジム・コリンスは、私たちは「環境」「不運」「生い立ち」「過ち」「挫折」などの囚人ではなく、自らの判断でそれらから自由になれるのだと説いている。

この箇所は『幸福優位 7つの法則』の『法則4 再起力 - 下降への勢いを利用して上昇に転じる』という箇所に書かれている文章だ。この箇所の続きには「心的外傷後の成長」という「第三の道」があると言っている。ちなみに「第一の道」は「いまいる場所をぐるぐる回る道。ネガティブなできごとは変化を生まないため、いつのまにか出発点に戻ってきてしまう」というもので、「第二の道」は「さらに悪い結果へとつながる道。悪いことが起きた後に、そこからもっと悪い状態になっていく」というものである。それならば「第三の道」である「心的外傷後の成長」、「逆境下成長」したほうがいいではないか?

そしてしばらく後にこのように書いてある。

挫折からうまく立ち上がることができる人というのは、何が起こったかによって自分を定義せず、その経験から何を得るかによって自分を定義する人である

挫折や環境や不運や生い立ちに負けっぱなしじゃもったいない。僕たち元エホバの証人二世は過去にとらわれず、その経験から自分を定義できる人になるべきだ。僕は危うく自分の人生を取り戻したつもりになっていたけど、過去の奴隷のままだったのかもしれない。そう考えると「今ここ」に生きること、幸せになるための手段を自ら捨てていたのかもしれない。「法則4 再起力」の章は元エホバの証人二世たちには勇気を与えてくれる箇所であると思う。ぜひ、『幸福優位 7つの法則』は読んでおくべき本だと強く勧めたい。

「明日は死」なないんだから、神は「在る」んだから

「明日は死」なないんだから、神はあるんだから

「明日は死ぬのだから」

エホバの証人は、エホバの側に付かない人たち(すなわち世の人たち)を【明日は死ぬのだから】というカテゴリにくくり、エホバの証人をやめた人たちや背教者たちを享楽主義へといざなった。

エホバは非常に強力で、エホバの加護から離れた場合にはそういった享楽主義および快楽主義への入り口でしか過ぎないと教えられてきたが、果たして、僕たち元エホバの証人たちの過去は享楽主義や快楽主義および堕落論的な生き方をしてきただろうか?

むしろ思考の堕落をしているのはエホバの証人の側

僕たち元エホバの証人二世たちは、勤勉に働かせられ続け、自己犠牲は当たり前で、他者の目を捨てせられて同胞の人たちの視線にさらさせられ続けられた自己不在の生き方だった。いかに早く必要な大きなところで働くか、ベテルで働くかの勝負をさせられてきたのではないか?

そう、実際それらはいかに早く必要な大きなところで働いて母親もしくは両親たちを喜ばせるかどうかという競争社会での生き方でしか過ぎなかった。

これを乱暴に言えば、親が敷いたレールをいかに沿った生き方をさせ、子どもを無思考にさせ、選択権を奪い停止させた子供の思考および思想を略奪した生き方でしか過ぎなかった。

これらを鑑みるならば、僕たち元エホバの証人二世は、エホバを裏切ればハルマゲドンで滅びるといった脅しや恐喝、そして不承認といった恐怖を植え付けてきた。実際、僕のエホバの証人を辞めた実際の兄弟たちは親からの見捨てられ不安におびえて生活している。物理的にも精神的も親からのそれらの供給を必要とした生き方をしている(余談だから僕はそういった元が絶たれたとしても生きていく術を見出している)。

何がいいたいか、というとエホバから捨てられたところで親に捨てられたところで、人は明日も生きてくということでもある。

考えてほしい、過去にエホバの証人二世の『昼寝する豚』というサイトもあり、現時点でもあるし大きな本屋さんや図書館に行けばその本も置いてあるが、彼の生き方はマインド・コントロールによる生き方を余儀なくされた可愛そうな人である。最期があまりにも『自分を生きていない終わり方』だった。
当時はエホバの証人として辞めた人に対する救済がなかったわけではないが、それが辞めた人への救済ではなく、エホバの証人たちの自己都合の救済処置でしか過ぎなかったのは言うまでもない。しかし、『昼寝する豚』の彼は辞めてハルマゲドンで滅ぶという選択肢に後悔はなかったか、というと微妙な判断にはなるだろうが、僕個人としてはそれでいいという『受容』を認めていたのではなかっただろうか。
彼はエホバの証人としての不自由よりも、自由を選んだ

彼は明日死のうと思って生きたわけではない、エホバを恐れていた事実はあるだろうが、自分の生き方を捨てる選択は最期まで捨てなかった。

神はいる

実存的な神、言語的な神

果たして神はいるのだろうか?という問いに対して、その答えは人それぞれであることを承知しているが、僕個人としては神は存在している、と確証している。
かといってエホバみたいな横暴な神ではなく、道義的に正しいことを認める心の有様が僕は敢えて神と呼んでいる。

たとえば、電車の中で杖を持って立っている老人に座っていた人が席を譲る行為を見てそれをどう思うか?
人によるだろうが、僕はその光景を微笑ましく思うし、逆に恥じることもある。恥じる理由は、自分が譲るべきだったときにそれが出来なかった時だが、その恥は決して悪すぎる感覚ではなく、次回に生かせられる感情であるという認識である。それ以来、僕は目ざとく杖を持っている人に対して反応するスキルを身に着けた。

話を戻そう。『神』はいるか?という疑問に対して僕はこう応える。

『神は個人の中にある』

一言で言おう、神は『いる』ではなく、『ある(在る)』ということだ。

『神』はひとの心たちに点在し、良心という形をとったり、思いやり、優しさという形をとったりする。寄付をする人のことを悪くいう人は中にはいるだろう。だが、それで果たして損をした人はいるだろうか?否、いない。受けた側も与えた側も幸せになるシステムでもある。
中には詐欺のような案件もあるだろうが、そんなことをいっても誰も得はしない。詐欺師が9割存在したとしても、残り1割を喜ばせることに意義があるから。

ニーチェは過去に言っているがもはや『神は死んだ』今、神は誰であろうか?
僕の中では『エホバ』という神はもはや実際に存在しない神であり、彼らの言葉を借りれば『偶像』のひとつの表現と同様の、言葉遊びの言語による形骸化した存在でしか過ぎない

しかし僕たち元エホバの証人二世は神にときどきめぐりあう。

そう、人としての優しさ、思いやり、良心などに基づいた信念を目にした際、感動するその感情の中に神はいるということだ。その見出した感情から僕たちはときに成長し、ときに涙し、ときに笑いさえする。

すべてを救ってくれる神は一時しのぎの過去の産物でしかず、大小違わず僕たちの中には神がある。エゴとならない程度に。 僕たちは人の心を揺り動かす存在になることができれば、人に喜びの涙を流させ事ができれば元エホバの証人二世としてエホバという神から離れて、自分ひとりの力を人と協力しn乗にして、神にはならなくてもいいから自分の心から笑える花になろう。

進化を止めるな(希望編)

なぜ僕たちは進化しなければいけないのか?
それは停滞とは死を意味するからだ。
人はどうせ死ぬし生きる意味や意義を感じない人もエホバの証人二世には多いだろう。理由は言わずもがな自分を殺しながら生きてきたから。
しかし、もしもうもはやエホバの証人ではないならばもう自分を殺しながら生きていく必要性は皆無だ。このことについては再三述べてきたので端折る。

希望をもつのに必要なもの

進化をするために必要なものとして気力・活力を持ち、それをガソリンとして持続させるために目標・目的を持つことを強調してきたが、次に必要なものとして希望をもつことについて言及していた。ではなぜ希望が進化に必要なのだろうか。

希望なき明日には停滞と怠惰しか残らない

人はだらけたり弱くなると明日に対して戦う気力を失ってしまう。停滞は怠惰を生み、そして自滅へと至る。その怠惰に至らないで勝ち続けるために希望は非常に強力な武器となる。希望は人を強くする。さらに強い人には人が勝手に寄ってくるものである。人が人を呼び、人が自分を強くし、自分からさらに他人を強くする相互作用が働く。そのためにも希望は停滞以外の怠惰を取り除き、自分を強くする効力を発揮させる。

人は弱い。

容易に停滞へと流されやすい材料で世の中にあふれている。酒、ゲーム、ムダな情報(ゴシップなどの将来的に何の役に立たないもの)その他もろもろ。僕は酒に流されそして多くの時間およびお金を失ってきた。さらに愛すべき人をもなくしてきた。

その理由は自ずとわかっている。明日への希望がなくなったときに人はそれらに流され自己成長を抑制し惰性・怠惰へといざなわれたときに弱さを隠れ蓑にして逃げるためだ。別に逃げることは悪ではないが、自分の人生から逃げることは何の役に立たない。

逃げるためには希望も必要だ。希望を持つことは逃げるための戦略も考慮する事ができる上、さきほど述べた通り自己成長へといざないやすい循環へつなげる。ならば怠惰よりも希望を選んだほうがよいではないか?

希望を失った人に近づかない

人は希望を失いやすい生き物であるがゆえに、希望や向上心の欠如を得てしまいがちである。だが、自分の中に希望があるならならばその希望を消しやすいひとの近くに決して近づかないことが大事である。苫米地英人氏は彼らのことをドリームクラッシャーと表現していたが、本当にそのとおりだと思う。

希望や向上心の欠如は感染しやすくそして破滅などを呼ぶ。危うく僕もそれにやられるところだった。近親者に向上心の欠如したひとがいたのだが、その生き方が妥当なんだろうと激しく錯覚してしまった。でもそれは大いに間違いで、それならばまだひとりでいたほうがいいことにやっと気づいた。

僕も気が付かないうちに感染させられてしまい怠惰へといざなわれたことには全然気が付かなかった。それくらい希望を失ったひとの影響力は非常に強い。もし知り合いにそういうひとがいたならば距離をとったほうが大いに好ましい。

希望は進化を止めない起爆剤

ここまで述べたら多くの人は気づいているだろう。希望も結局はエネルギーの異種であってほかの気力・活力・目標・目的とほぼ等価であって、希望はさらに一歩先にいった重要なエネルギーのひとつだ、ということだ。希望は怠惰を避け、強いエネルギーを呼び寄せる円環の無限増殖の価値を生み出す。

ゆえに希望は非常に重要なもので(でも最初からこの希望を持つことはできないことを前述の進化を止めるなシリーズでのべたが)、この希望を失うことでひとは平気に落ちることも可能だ。ただこの希望を手にいれ自分の成長へとペースに乗せることができるならばもうエホバの証人二世時代とはさよならしたことを認識していいものだと思う。

僕もこの希望を失わないよう、僕より希望エネルギーの強いひとたちと会いにいく。

進化を止めるな(目標・目的編)

そもそもだが、目的や目標を持つことなんてかなり難しいことである。エホバの証人二世には目的なんて持てる精神状態はなく、親たちに強いられたレールの上を走らさせられるだけの人生だったがゆえに生きることだけで精一杯だったのではないか?

でもそこで敢えて僕はこの目標・目的を持つ意義について言いたいのは、自分の人生をこんなブログを見ている人に言いたいからだ。

人はいずれ死ぬし、生きている途中で病気および怪我をして思う存分に生きることなんてできるはずもない。そもそも論だが、人は満足に生きることなんてできるはずもない。孫たちに囲まれて幸せに大往生できる人生は今の所僕は見たことがない。孫がいるからといって人は幸せにつながるかといわせてみればそれは嘘になる。孫がいても懸念材料が増えるだけだ。

それでは目標・目的の意義はなにか。それは自分のエンジンへのガソリンにつながることだ。 以前気力・活力について言明したが、これはガソリンの元になるものであってガソリンの本質のものではない。本当にガソリンとなるものは目標・目的が明確化されたものであって、それらがうまく機動することから生きている実感を得られるものである。

以前の記事ではお猪口程度のサイズで気力・活力を持つことができるか、ということを書いたが、目標・目的が明瞭化することから人はそれらを持つことができることについては明言しなかった。そう、人は目標・目的を得られれば強くなれる

では目標・目的は何にするべきか、それは自分で決める事であって僕が決めることではない。余談だが、僕の目標と目的は愛する人とともにいることである。捨てられるならそれで構わない、僕の愛し方が下手過ぎただけのことだから。でもそんな僕の愛し方を理解してくれる彼女や親がいる。それで僕は満足だ。

これが僕の進化論だ。エホバの証人的な愛し方なんてくそくらえ。愛し方をご丁寧にご教示頂いてもそれは本質的な愛し方なんかじゃない。自分の形の愛し方こそ本質的な愛し方だ。まだ宮沢賢治的な愛し方の方こそ本当の愛し方だ。僕はそういうものになりたい。

進化を止めるな(気力・活力編)

興味深いことにこの元エホバの証人二世のサイトは、20代のアクセスはさほどなく 30代40代に集中している(Google Analytics の年齢データによる)。 今の20代はもはやエホバの証人の「畏怖の念」という概念はなく経済がすべてを左右することを把握した親の持ち主の子供たちだったのだろう(なぜ子どもたちと断定するのは、このサイト自体一世をターゲットにしていないから)。 ゆえにこのサイトエホバの証人二世であるこのサイトを見ている人たちは、いまだに傷が癒えていない精神的重症な方か同感により何かしらカタルシスを得られる人たちなのだろう。 その分析はまだ満足にできてはいないが、アクセスしてくれるだけで個人的にはとても嬉しいし個人的にはもっと認知してくれることで傷を負っている人たちにとっての癒やしの存在の場所になれるよう尽力したい。

それにしても、その中年に差し掛かる世代となっても、傷は癒えるどころか深く染み入ってしまったものであれば容易に完治するものではないことを僕は知っている。僕自身もそうだったから生きる意味に関する書籍を読み漁ったくらいだ(余談だが、最近では「ホモ・デウス」などがオススメだ)。

ではどうやって心にえぐり刺さってしまったこの槍を抜いて、さらにその貫かれた傷を治すことができるのだろうか?

進化する

エホバの証人は進化論を否定することによって神の存在を覆させないものへと昇華させてきた。進化論を認めてしまえば神は不要で傲慢な存在であることを意味する。それは意地でもものみの塔聖書冊子協会は否定したいことだっただろう。 さらにいえば、その進化というワードはものみの塔聖書冊子協会にとって信者の操作性を失う存在へと化けさせる。それほど「進化」というものは危険で、逆説的にいえば信者からすると自由へとつながるパワーワードだったのだろう。

しかし僕ら元エホバの証人二世は進化するという自由も選ぶことができる。それならば進化したほうがいいが、そう簡単にできるものではない。進化をするには以下のものが必要となる。

  • 気力・活力
  • 目標・目的
  • 希望

これらについて何日かに渡って書いていこうと思っている。

元エホバの証人二世の『気力・活力』

心理学の用語で「セリグマンの動物実験」というものがあるが、これは日本で言えば『学習性無力感』というものであり、人は回避できない状況の苦しみが続いていると、その場から離れるという判断ができずその場に留まってしまう。 エホバの証人二世であればこの気持ちは重々理解できるものでないだろうか。 僕たちエホバの証人二世はこの苦しみを経験し続けたゆえに脱エホバの証人という判断ですら奪われていた。精神的な苦しみを経験させられ続けることしかそもそもできなかった。

今、元エホバの証人二世となったとしても、奪われた幼少期の頃から培われ続ける気力・活力の器はとても小さく満たされても、一般人から見ればおちょこほどの気力や活力しか持つことができない。そのおちょこ程度の気力・活力でどうやって次の段階である『目標・目的』というものを持つことができるだろうか? ただ日々を生きるだけの生活から「目標・目的」なんて容易に見つかるわけがない。電車の中の状況を知っている人は知っているだろうが、ほとんどの人がスマートフォンでなにをしているだろうか?だいたいの人たちはゲームではないか?もちろん中には LINE や twitter など SNS を楽しんでいる人もいるだろうが、これもある意味同系列なものであると僕は思う。共通していることは虚構の空間での自己実現及び、虚構の承認欲求である。ではなぜ働きそして勉強に疲れた人はそういった仮想の世界に潜り込む事ができるのだろうか?それはエホバの証人二世たちのように精神的無気力状態になったからだ。 やりたくもない仕事、したくもない勉強。それを強制させられて使役させられているのであれば人は気力を失う。その癒やしの手段として手近な虚構の世界を誘うのだと思う。

もし電車の中で気力・活力にあふれている人ばかりならどうなっているだろうか?みんな移動の時間を使って勉強したり副業的なことをしたり自分を高みへと誘う書籍を読みまくっているのではないか(逆にこれはこれで地獄絵図な気もしないが)?

人は気力・活力がないゆえに自分を容易に辛くても今のままを停滞させるようになっている。それほど気力・活力は大切なものだ。

ではどうやっておちょこ程度の気力・活力の幅を広げる事ができるだろうか?

余裕を持つことである。

その余裕の源泉となるのは人により異なるので断言はできないがこれだけは言える。世間体を意識すればするほど気力・活力は奪われ萎縮していく。ならどうすればいいかは言わなくてもわかるだろう。世間体を持たず自分の思うままに生きることだ。簡単に言っているがそんなことはできるはずがない。ただここで断っておきたいのは自由に生きるために自分を犠牲にしまくる必要はないということであって、ルール規範は守らねば結局は自分に返ってくるのでオススメはしない。この場合の世間体というのは強制的に強いられた「社会的道義」のルールであって、それを破ったとしても制裁が加えられないものである。

たとえば、離婚することは果たして悪だといえるだろうか?世間的にみて離婚された男性は何かしら不具合があってさせられたと判断するであろうが、それは世間が勝手に考えることであって自分が決めることではない自由がある。

昔では同性愛は禁忌とされてキリスト教世界内では『罪』とみなされてきた。だがしかし、今はどうだろうか?ダイバシティが当たり前だとみなされることによって同性愛もテレビで堂々としている人もいるし、性の多様性が認められたことから自由を得られた人も多くいる。 世間体といったルールは簡単に変わっていくもので不変的なものではないということだ。

では世間体といった気力・活力吸収物質のためになにか僕たちはしなければいけないことはあるだろうか?世間体といったブラックホールに関わっていつづけることは結局のところエホバの証人時代と同じことであって、無気力にさせる自分を生成することではないか?ゆえに世間体といった感覚に自分をあわせるのではなく、気力・活力を生成するために自分を持ち続けよう。そして余裕を持つために勉強する働くといったことは問題ない。それが次の『目標・目的』につながるから(続く)。

ひとの愛し方ってなんだろう?

人の愛し方について

端的にいうとこういうこと。

  • 自分の愛されたい方向で人を愛するな
  • 物理及びサービスの提供者であるな
  • ありのままの自分でいてくれることを許してくれる人とともにあれ
  • DV(物理はもちろん精神も含めて)は論外

自分の愛されたい方向で人を愛することの害について

人の愛し方は愛されたい方向性と酷似している。

人は愛されたい方向性があり、そして、その方向性に伴った愛し方をすることは比較的得意だが、他人はそもそもその愛され方に慣れているとは限らない。過剰・過度の愛し方に慣れているのであれば自分の持っているいわゆるエホバの証人的自己犠牲の愛し方は有りだろう。 だがしかし、それは相手がもしそれを求めているのであれば、自分は将来的に疲弊してゆき、後々自分の存在について非常な疑問を抱くことになる。すなわち自己犠牲有りきで人を愛するということは自分の存在を皆無なものありきであって、愛されることには一切つながらない。

愛することは自分の愛されたい方向とは決して異なる。 愛したい相手がエホバの証人であればそれはある程度トレースできる生き方ではあるであろう。しかし、相手がエホバの証人時代でいう「この世の人」という人たちであれば、エホバの証人時代の愛し方すなわち自己犠牲的な愛し方は気持ち悪いものである。心理学者アルフレッド・アドラーの言っていたゲッターという人たちであれば、それは大好物な方たちではあるが、それらの人たちは自分の愛し方を利用する人たちすなわちあなたは利用されては棄てられるツールのひとつと化す。 そういった利用される立場になりたい人であればいいが、そんな生き方は正直いって唾棄すべき生存方法である。

物理及びサービスの提供者であるな

人は物を受け取ったりサービスを施されたりすることによって、提供者は自分の価値を高めることがままある。だが、それは自分の存在価値を放棄しており、物およびサービスありきの自己実存でしか過ぎない。

愛することはそれら物及び快楽の提供では一切ない自分が自分で居ていい理由を相手が与えてくれるものである。

ものでしか相手を喜ばすことができないのは自分がその程度もしくは、相手がその程度の悲しい存在である、ということである。

ありのままの自分でいてくれることを許してくれる人とともにあれ

今、あなたが奇声を上げたとしよう、その際あなたをパートナーである人はどのように反応するだろうか?

  • 憤る
  • 怒る
  • 否定する

もし上記の方であれば愛されていない証拠ではある。 奇声を上げても相手が驚いて心配してくれるのであれば愛されていることになる。あなたは信頼口座を十分に得ている証拠でもあり、そしてそれはあなたを思いやっている事象でもある。 本当の愛は相手がどうなろうとも受け入れてくれる。相手を承認できる存在で有り続けてくれる。そんな人に好かれよう。

DV(物理はもちろん精神も含めて)は論外

ことにエホバの証人二世は、物理的な虐待はもちろん精神的な虐待に対する耐性はそれなりに備えられている。だがそれは自分を将来的に精神をすり減らせる材料にしかほかならない。

厳密にいえば、日本のエホバの証人は二重の苦しみを受けている。それは

  • 罪の意識
  • 恥の意識

の両方が介在している生き方を強いられてきた。

罪の意識は聖書及びキリスト教世界から入れられたものであり、恥の意識は日本固有のもので、それを得る(恥をかく)と人として否定される生き方だ。僕たちエホバの証人二世は罪と恥の概念を刷り込まれそれを強く意識させられ生きてきた。

でも考えて欲しい。

元エホバの証人であれば、罪の意識なんて持たなくてもいいじゃないか。

さらにいえば、恥の概念はそもそも必要だろうか。

それらの意識は過剰に自己のエセ高みに委ねた生き方であって、本来の自分とは一切関係のない、いわゆる他者が形成させていた弱さを隠すための概念でしか過ぎないのではないか? 人は弱いし恥を隠し間違いもするし罪も犯す。しかしそれらは自分を高めそして強くしていく。 強くしていく材料を自ずと放棄する必要なんてあるだろうか? 確かに他者に対して傷をつけてはいけないけど、自分を傷つける行為すなわち転んで立ち上がっていく行為に意味はない、と果たしていえるだろうか。 ころんだ数だけ早く確実に立ち上がれただろう。 どんどん失敗して転んでいけばいい。

立ち上がれるなら、それが強さだ

話がそれて申し訳なかったが、人を傷つける行為に対しては自分を傷つける行為にしかならないので端折ってしまった。

自分を大事にしたいのであれば、エホバの証人二世であれば、肉体的精神的な他者への虐待は意味をなさないことを重々承知しているだろうからなにもいわなくても理解しているだろう。

愛し方が相手にハマった時の満足感

人の愛し方を自分なりの形で学んだ時、そして自分の愛し方を相手が受け入れてくれた時、その喜びは半端なく嬉しい。 それはとても自分を嬉しい思いだけでなく、自分の必要性について理解できることになる。

愛され方を理解する前に愛し方を理解することはとても難しいかもしれないが、人はそもそも愛し方なんて最初からわかっていないものである。 ましてやエホバの証人二世なんて聖書マニュアル及びものみの塔聖書冊子協会的愛され方しかわかっていない。そんな愛し方は一蹴してしまえ、と僕は断言する。

娘息子じゃない限り、自己犠牲的な愛し方でしか自分を愛してくれない人は本当はいらない。 自分の愛の形を受け入れてくれる人を、頑張らない形で愛しつくそう