元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

「明日は死」なないんだから、神は「在る」んだから

「明日は死」なないんだから、神はあるんだから

「明日は死ぬのだから」

エホバの証人は、エホバの側に付かない人たち(すなわち世の人たち)を【明日は死ぬのだから】というカテゴリにくくり、エホバの証人をやめた人たちや背教者たちを享楽主義へといざなった。

エホバは非常に強力で、エホバの加護から離れた場合にはそういった享楽主義および快楽主義への入り口でしか過ぎないと教えられてきたが、果たして、僕たち元エホバの証人たちの過去は享楽主義や快楽主義および堕落論的な生き方をしてきただろうか?

むしろ思考の堕落をしているのはエホバの証人の側

僕たち元エホバの証人二世たちは、勤勉に働かせられ続け、自己犠牲は当たり前で、他者の目を捨てせられて同胞の人たちの視線にさらさせられ続けられた自己不在の生き方だった。いかに早く必要な大きなところで働くか、ベテルで働くかの勝負をさせられてきたのではないか?

そう、実際それらはいかに早く必要な大きなところで働いて母親もしくは両親たちを喜ばせるかどうかという競争社会での生き方でしか過ぎなかった。

これを乱暴に言えば、親が敷いたレールをいかに沿った生き方をさせ、子どもを無思考にさせ、選択権を奪い停止させた子供の思考および思想を略奪した生き方でしか過ぎなかった。

これらを鑑みるならば、僕たち元エホバの証人二世は、エホバを裏切ればハルマゲドンで滅びるといった脅しや恐喝、そして不承認といった恐怖を植え付けてきた。実際、僕のエホバの証人を辞めた実際の兄弟たちは親からの見捨てられ不安におびえて生活している。物理的にも精神的も親からのそれらの供給を必要とした生き方をしている(余談だから僕はそういった元が絶たれたとしても生きていく術を見出している)。

何がいいたいか、というとエホバから捨てられたところで親に捨てられたところで、人は明日も生きてくということでもある。

考えてほしい、過去にエホバの証人二世の『昼寝する豚』というサイトもあり、現時点でもあるし大きな本屋さんや図書館に行けばその本も置いてあるが、彼の生き方はマインド・コントロールによる生き方を余儀なくされた可愛そうな人である。最期があまりにも『自分を生きていない終わり方』だった。
当時はエホバの証人として辞めた人に対する救済がなかったわけではないが、それが辞めた人への救済ではなく、エホバの証人たちの自己都合の救済処置でしか過ぎなかったのは言うまでもない。しかし、『昼寝する豚』の彼は辞めてハルマゲドンで滅ぶという選択肢に後悔はなかったか、というと微妙な判断にはなるだろうが、僕個人としてはそれでいいという『受容』を認めていたのではなかっただろうか。
彼はエホバの証人としての不自由よりも、自由を選んだ

彼は明日死のうと思って生きたわけではない、エホバを恐れていた事実はあるだろうが、自分の生き方を捨てる選択は最期まで捨てなかった。

神はいる

実存的な神、言語的な神

果たして神はいるのだろうか?という問いに対して、その答えは人それぞれであることを承知しているが、僕個人としては神は存在している、と確証している。
かといってエホバみたいな横暴な神ではなく、道義的に正しいことを認める心の有様が僕は敢えて神と呼んでいる。

たとえば、電車の中で杖を持って立っている老人に座っていた人が席を譲る行為を見てそれをどう思うか?
人によるだろうが、僕はその光景を微笑ましく思うし、逆に恥じることもある。恥じる理由は、自分が譲るべきだったときにそれが出来なかった時だが、その恥は決して悪すぎる感覚ではなく、次回に生かせられる感情であるという認識である。それ以来、僕は目ざとく杖を持っている人に対して反応するスキルを身に着けた。

話を戻そう。『神』はいるか?という疑問に対して僕はこう応える。

『神は個人の中にある』

一言で言おう、神は『いる』ではなく、『ある(在る)』ということだ。

『神』はひとの心たちに点在し、良心という形をとったり、思いやり、優しさという形をとったりする。寄付をする人のことを悪くいう人は中にはいるだろう。だが、それで果たして損をした人はいるだろうか?否、いない。受けた側も与えた側も幸せになるシステムでもある。
中には詐欺のような案件もあるだろうが、そんなことをいっても誰も得はしない。詐欺師が9割存在したとしても、残り1割を喜ばせることに意義があるから。

ニーチェは過去に言っているがもはや『神は死んだ』今、神は誰であろうか?
僕の中では『エホバ』という神はもはや実際に存在しない神であり、彼らの言葉を借りれば『偶像』のひとつの表現と同様の、言葉遊びの言語による形骸化した存在でしか過ぎない

しかし僕たち元エホバの証人二世は神にときどきめぐりあう。

そう、人としての優しさ、思いやり、良心などに基づいた信念を目にした際、感動するその感情の中に神はいるということだ。その見出した感情から僕たちはときに成長し、ときに涙し、ときに笑いさえする。

すべてを救ってくれる神は一時しのぎの過去の産物でしかず、大小違わず僕たちの中には神がある。エゴとならない程度に。 僕たちは人の心を揺り動かす存在になることができれば、人に喜びの涙を流させ事ができれば元エホバの証人二世としてエホバという神から離れて、自分ひとりの力を人と協力しn乗にして、神にはならなくてもいいから自分の心から笑える花になろう。