エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

人を感情で利用しない(自己存在で他人を理解する)

以前の記事でも述べたが、大切なのは自分を愛することで人への愛を知ることだ。

人とは言ってみれば他人である。

だが、自分への愛し方を知らないで他人を愛することなんて出来やしない。他人に自己犠牲的な愛を強いることはマゾじゃなくサディストのする行為だと僕は解釈している。

人は決して強くない。

サディストの愛なんてしょせんワガママな愛の形でしか過ぎず、マゾヒスティックな愛を彼ら及び彼女らは理解できるはずもない。

 

実際僕は、「SM判定」は大嫌いである。

私は M だから、という人は極度の辛さを知らないで相手に何かしら自己主張する人でしか過ぎず、僕は S だから、という人はかなりの打たれ弱さの持ち主にしか過ぎない。

いわゆる、そういったフロイト的思考の SM 判定を盾にして結局のところ、相手を利用するツールとしてそういった性癖を利用しているにしか過ぎない、と個人的に思っている。

本当に強い人は SM なりなんなり利用せず、相手を見定めて相手に合わせて相互依存的な関係を築こうと思うはずである。安易な SM 判定やら血液型判定やらに逃げること無く、率直な相手を見るものであると僕は思っている。

 

確かにそう言った SM 判定及び血液型判定は若干の尺度にはなりうるだろうが、それはあくまで「若干」のものでしか過ぎない。その人達が負って来た辛さなどを把握した「つもり」にさせるのがそういった「なんちゃら」判定であり、リアルなその人の体験をしてきたわけではない。実際僕には B型の性格も持ち合わせているし、A型の性格の方が若干強いし、O型の性格は顕著に出ているようで、実際は元働いていた社長からは「変人」として扱われている AB型の性格をも持ち合わせている。そしてその社長からは 「M」と言われていた。

虐げられる辛さを知っている人はすでに周知の通りだが、サイモンとガーファンクルが歌っていたとおり、「釘よりもハンマーになりたい」というのが本音だと思う。誰しも叩かれたくない(おしりにムチ(しゃもじ・ベルト)での殴打なんてエホバの証人幼児期に経験した二世なら誰しも知っていることだろう)。

 

だがこう考えてみるのも一興かもしれない。

エホバの証人の母親もしくは父親もエホバの証人としての生き方に窮苦していたので、そのストレスのはけ口として僕たちエホバの証人二世を利用してサディズム的な攻撃性を利用していたのではないだろうか。

 

言ってみれば、彼らもエホバの証人としての被害者でもある。

 

考えて欲しい、エホバの証人として正確に正しい生き方をできる人なんてそんなにいただろうか。聖書自体、キリスト以外に完全で完ぺきな人はいないと明言していたのではないだろうか。

完璧な存在として振る舞い、そして、そうではないといった事実に目を背ける勇気を持てないが故に、あなたを叩いていた、物理的にも精神的にも。

そういった弱さをエホバの証人一世もしくは二世かもしれない、それらの親は持ち合わせていた。

 

人を許す事ができる人は自分をも許せる人でもある、と以前の記事で匂わせていたがそれが真実だと思う。親たちは自分への呪縛に囚われていたかわいそうな人でしか過ぎない。

だがあえていう、そこには愛(アガペーなりなんなり)のものではなく、フラストレーションを吹き出すツールとして僕たちエホバの証人二世は(もしくは三世は)存在させられていたのかもしれない。

そして、僕たちエホバの証人二世(たち)はその辛さのもと、この組織を去ることを選んだ(選んでいない人ならばこの記事を読むこと自体辞めた方がいい、背教的な生き方しか奬めていないのだから)。

 

ここまで来てわかったことは、人は感情に支配されて、そして感情をも利用し、僕たちエホバの証人二世(もしくは三世までをも)利用し、自分の立場を保持しようとしている。

僕たちはそういった生き方で人生は語れない、

人生を語るためにも強さが必要だ。

 

そのために、エホバの証人二世だった強さを活かすために、人の辛さ・悲しみ・傷・怒りまでをも理解して、そしてそれを知って、その背景にあるものを悟って優しさを配ることが大事ではないだろうか。

怒りによる相手の支配は一時的に効果的だが継続力は有していない。

そういった怒りの感情を利用することは結局のところ相手への「前借り」という行為でしか過ぎない。前借りには利息がつき、そして利子を生む。

その利子は相手が去ると言ったものだけならそれでいいが、その本質にあるものは「異形をなした自己肯定感」である。すなわち怒りで相手を操作することを学ぶことによる「壮絶な勘違いからくる他者に対する非貢献」であり、すなわち「絶大的な孤独」を呼び、その絶大的な孤独は何も学習できない「想像を超えた絶対的な虚無」である。

 

でも僕たちエホバの証人二世は人を感情で利用することの怖さを知っているし、そしてそういった事による絶大的なダメさをも知っているだろう。

その分、僕たちは人よりも優位に立っている、と思えば素晴らしい感情を開花させることもできる。

 

その開花できる綺麗な花(感情)については後日伝えたい。