迷わない
エホバの証人が否定的になっていたこの世の音楽であるが、山崎まさよしが歌っていたが「月明かりに照らされて」という曲がある。
この歌詞が僕は好きだ。
「これ以上 迷わない
もう 待たせないよ
キミと一緒じゃなきゃ
出来ないこと たくさんあるから」
(相変わらず iTunes のサンプルは焦らす癖があるのが癪だが)。
人は独りでは出来ないことはたくさんある。
お金を稼ぐことだって独りじゃ出来ないし(頑張れば出来る、と思う人がいるかもしれないが、それは他者の存在があるからでこそという概念がない)、
独りだったら気づかないことも多々ある(価値観の相違に気づいたり、そこから見出す感覚だったり、本当に好きなものが何であるかであったりetc...)。
例えば、今僕がさっきタイプした「気づかない」と「気ずかない」は認識しただろうか。
本来は「気づかない」が正解であることはこの手のブログの読者はすでに気づいていただろう。
そういったこと(「ず」じゃなくて「づ」だよ)を諭してくれる人が本来は貴重な人である。
エゴが邪魔してそれらを否定することは自己の成長に邪魔する感覚である。
大切で大事なことは、否定的な意見があったとしても、受け入れる心の余地を作って受け入れることだ。
これはいうなれば自己の成長に繋がり、そして芽が伸びて高みになる自分への成長にへも繋がる。
逆説的に言えば、エホバの証人二世はこういったこういった些細なミスに対して親や奉仕の僕もしくは監督から訂正を促された。
いわゆる「重箱の隅をつく」ことが彼らのカタルシスでもあったのだろう。
彼らのアイデンティティは罪や「簡単な」ミスを突っ込むことで保っていたものもある。
だがしかし、僕たちはエホバの証人の二世として三世としてもはやそれらを氣にしないでいる自由を得ている。
自由は凄くて素晴らしいものであることも満喫しているだろう。
それならそれらを謳歌しようじゃないか。
この文章の「意図的な」一部のミスに気づいただろうか?
「重箱の隅をつく」という言葉は本来ない。
「重箱の隅をつつく」が正解だ(もっと厳密に言えば「楊枝で重箱の隅をほじくる」だ)。
そういったミスをこの世にいて心のきれいな人から言及してくれる人を僕は大切にして、今、そういった人とともにいる。