元エホバの証人二世として開花できる花 part.1
花は美しく、そして儚い。
だが、その儚さゆえの美しさもある。
僕たちエホバの証人二世にも咲くことが出来る花はある。人を愛することの価値(人の存在価値を認めることの意義)、そして人に優しさを与えることの意味を。
エホバの証人の二世は人の痛みに対して過敏に反応できるように仕組まれている(というのも語弊があるが、文字通りの意味合いをあえて通す)。
あなた(エホバの証人二世)は苦しさを経験してきたがゆえに優しさをも備えあわせている。
ただ、人に対しの愛し方を間違えて教わっただろうけど、他人を愛することには長けている。それは、「率直さ」を備えられた感覚がある上、他人への痛みをも理解できる「辛さ」も備えあわせている。
でも言いたいことは「頑張れ」といったものじゃない。
あなたは辛さを経験したが故の
「他人への愛し方」を理解した存在であることを。
愛し方を学ぶためにまず、自分を愛することは過去の記事で書いた。
それは儚いものかもしれないが、愛することの本質でもある。愛には自己犠牲はデフォルトであるものだが、果たして相手に対して愛されることに見返りを求めただろうか。
答えは「No」だろう。
愛することに見返りを求めることはナンセンスだ。
実際、僕にも愛する人がいるが、それにリターンを求めてはいない。
これが、愛することの本質、いわゆる「アガペー(無私の愛)」的な愛だと思っている。
嫌悪する概念でもあるが、実存したと思われるイエス・キリストは本質的な愛の追求者であってそれをパウロ及びローマ司教たちは利用していった。
言ってみればイエス・キリストは利用された被害者でもある(続く)。