元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

元エホバの証人からしばらく経って〜自己存在を超えて〜

元エホバの証人としてずっと生きてきたなら、十分に自己存在の必要性を知っていると思う。自己存在が十分に実感できたら、次の次元として「他者存在」を受け入れる必要性に駆り立てられているのではないだろうか。

自己不在の次としてあるのが「自己存在」であるが、まだ自分という存在の意味や価値観その他いろいろな事がわからないならこの箇所は読んでも意味はないと思う。自己存在が分かったなら、次にあるのが「他者存在」の価値を見出すことではあるが、言ってみればそこには他者に対する攻撃性は皆無で、自分以上の価値観を持っている人のことを素直に認めることができる心理状態であることだったりする。自己存在のままつき走っても人生はそれなりに楽しいだろうが、どうせなら他者の価値観を見出して、それを受け入れたり受け入れなかったりして、自分の道を補正していくほうが実際は自己到達のショートカットだったりする。

何事も否定的に捉える人もいるが、そういった人は本当の自分というものはすごく小さい存在だったりするケースもある。他者から批判されることに敏感で、正当なことを言っても受け入れがたい人格だったりするのではないだろうか。自分もわざわざそんな人格になる必要はない。どうせなら、自分を叱責する人の妥当性をそれなりに考えて受け入れる人になれるほど、懐の広い人間になったほうが幸せではないだろうか。

愛する人の言うことは誰でも聞くことは容易い。ということで、自分よりも優れた人を愛すると、自己到達及び自己達成につながりやすいのではないか、と思うかもしれない。確かにそうではあるが、自分の価値観と真逆の人である性格(例えば反社会性パーソナリティ障害などの持ち主)とわざわざ性格をあわせる人はいないとは思う。大事なのは自分の価値観を持ったうえで、自分の価値観と真逆の人と接する必要性まではないということだ。自分の価値観と同一線上の人と知り合い、付き合い、そして友達・恋人になる方が自己到達及び自己達成はし易い。言うまでもないが、一番好ましい形の一つとして、お互いが自己到達及び自己達成に至るために欠かせない存在になることである。正直言ってそういう存在を見出すのはひどく難しいが、世の中は広い、意外と見つかるものなのだろうと僕は自分の体験からして思う。

他者存在を認めることが出来たなら、もうエホバの証人時代の苦しさからは抜け出している状態だと僕は勝手に思う。確かにフラッシュバック的なものを感じるかもしれないが、それはさほど辛さを今の自分にもたらすことはなく、蚊に刺された程度の痒み程度の辛さではあると思う。さらに強靭な人であれば、何も感じなくなるとは思う。それくらい、他者存在を認めるということは強さの現れなのだ。是非ともこの記事を見ている皆さんも他者存在を認める強さを見出してほしい。