エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

元エホバの証人として〜許す〜

過去の辛い生き方により、敵及び過去中心的(サタン的)な生き方を強いられてきた経験があるが故に、過去の仲間であったエホバの証人たちですら敵対視する人も中にはいるだろう。今までエホバの証人の粗を探したり協会組織の過ちを探ったりして、今の自尊心を保っている元信者たちもいるかもしれない。

しかしそれは過去及び敵中心の生き方でしか過ぎず、本来生きている今及び未来の為に生きているとはあまり思えない。確かに相手の過ちから自分も同じような過ちを犯さないように予防線を巡らす必要も少しはあるだろうが、そこに必要なものとして「許し」という概念があると思う。

「許す」ということは「相手の過失を忘れること」であって、別に相手を好きになれとは言わない。実際、僕はこの組織に導いた母親や束縛した組織に対しては愛の感情なんてさらさらない。しかし、その憎しみに囚われることによって自分自身の生き方を左右されたくはないと思っている。「相手の過失を忘れること」というのは、相手にとってはそれは罪だと思っていなかったとしても、自分の中で「忘れる」という作業により浄化させる必要があるだけのことだったりする。それに人間の脳はすごくシンプルで忘れるために作られていると言っても過言ではない。その忘れる作業のために必要なことは「忙しくする」ことだったりする。「忘れる」という字も「忙しい」という字も共通して、「心を亡くす」という字体から成り立ってはいるけど、別に「己を亡くす」必要までは迫っていない。

ではどうやって忙しくするといいのか、というと、答えは簡単で、ただ単に熱中できる何かを持つだけのことである。インターネットが好きならインターネットに関する情報を色々と習得するといいかもしれない。HTML5、jQuery、WebPack、Gulp、TLS、nginx、TCP/IPなどなど、収集すると限りがないけど、それは仕事に大いに関係する情報ではないだろうか。インターネットじゃない別の何かが好きなら、そのベクトルに自分の情熱を傾ければいいだけだ。そうやって忙しくなってプロフェッショナルになると、収入も大いに増し加わり、より一層の自由も得られるだろう。エホバの証人時代のころから欲しかった自由が大いに得られ、そして忘れる事ができるのは一石二鳥ではないだろうか。

「許し」については先程も述べたように、相手に対して愛の感情を持つ必要性までは求められてはいない。忘れることは実際には難しく、ネガティブバイアスなり働いてしまいなかなか忘れることは出来ないかもしれない。でも、それらをパワーに変換してみることもできる場合がある。例えば宗教学などに関してはエホバの証人時代に禁止された抑制の力などを大いに発揮できる学問の種類ではあると思うし、僕は禁止されていた哲学や心理学について深く勉強する事ができた。ネガティブなエネルギーだったものは本当はポジティブに働くエネルギーだったという事実を捉えてもいいのかもしれない。

エホバの証人時代は許しはキリストによってもたらされるようなものだったかも知れないけど、本当の許しというのは自分の為になる大切な気持ちだということを認識して欲しい。エホバが赦せ、というから赦すのではなく、自分から望む気持ちに許しがあると思ったほうが自分から進んで許すことができる。その許しには上からの命令ではなく、率先的もしくは能動的なものである。受動的な許しなんてそもそも許せるものなんかじゃない。

許されない(過去及び敵中心の)生き方ならば、意味のなさないものに対してエネルギーを向けることになってしまう。そうではなく、許し忘れることは未来の自分のためのエネルギーを向けることができる。考えなくても、そっちの方にエネルギーを費やした方が好ましいのではないだろうか。何度も言うように、過去は今の肥料でしか過ぎず、僕たちは今と未来のために生きている。過去の苦しみはもう過ぎ去っており、そこから僕たちは嫌々ながらも成長することも出来た。その自負心を持って許す〜忘れる〜ことに励んだほうが僕たちのためになる。もちろん、敵ですら愛する気持ちは非常に尊いのは知っているけど、それは最早「敵」ではなく、友達という感情ではないだろうか(言うまでもないが、その友達という感情を持つ人に対してわざわざエホバの証人をやめさせるために尽力しても仕方がない)。敵はいないに越したことはないが、許すことが愛することと同義ではないことをよく知ってほしい。