エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

自分に優しさを与えることで人にも優しさを与えることができる

エホバの証人だった親はあなたに対して厳しかったのではないだろうか。

エホバの証人の親なら聖書というレールが与えられている上、経済的にもあなた(この場合エホバの証人二世)を操作しやすかっただろう。

 

短略的に言うと、エホバの見方 = 親の価値観 である。

 

親は自分がエホバになった(最高の神にもさながらなった)ような感覚であなた(この場合エホバの証人二世及び三世たち)を支配してきた。価値観は、エホバの証人であれば統治体に委ねられる以前に親によって決められたルールの方がプライオリティが高かったのではないだろうか。

言ってみれば、親がエホバよりも崇高の立場であって、エホバの価値観は親の価値観に付随するものでしか過ぎない、ということである。親はエホバの価値観を利用し、あなたたちを操作していた、ただそれだけのことである。

 

「人は支配性に支配されている」と加藤諦三氏は言っていたが、これは紛れもなく事実であると思う。

人は操作できる人を愛する傾向にあり、さらに言えばそれらの人を利用する生き物でもある。

僕たちは親の庇護の中に生きざる負えなかった。経済的にもありとあらゆる意味合いでも愛情を得るためにも。

だが僕たちの親はそれを利用して僕たちを使役させていたのではないだろうか。

 

大切なのは愛されることではなく、愛することでこの柵(しがらみ)から脱却することだが、それは簡単にできることではない。

 

ではどうすればいいか?

実はそれも簡単なことである。

 

今ココにいる自分を愛することでその柵から逃れることだ。

 

だが、それには「経済的にも」自立することが求められ、

「精神的にも」自律することが求められる。

自律自立ありきの話だ。

それが出来ないのであればのうのうとエホバの証人の二世(もしくは三世)として生きるほうが楽ではあるが、過去のブログで再々述べた通り、そこには自己不在の生き方でしか過ぎないし、そういう生き方にはエホバの証人としては価値があるかもしれないが、自分に対して付加価値を付けることは一切できない。

 

僕たちエホバの証人二世(もしくは三世)は経済的に自立出来ても「エホバの証人としての」習慣からの呪縛からなかなか解かれないものではある。いわゆるマインドコントロールからの離脱はなかなか出来ない。実際、エホバの証人として離れて20年近くたった僕にもその価値観が残っているくらいだ(僕の場合は幼少期からエホバの証人として学習させられたからだろうが)。

 

しかし、己の価値観は周囲及び多読により軌道修正することができる(多読の価値については以前述べた)。

鬱により多読出来ないのであれば、いわゆるこの世の友達から自分の価値観について自己開示することで調べてみても構わないかも知れない。

 

この世の友達からの返事は「かわいそう」だったり、「バカじゃないか」だったり、「頑張ったんだね」だったり、「どうでもいい」だったりと多様だ。僕としてはエホバの証人時代から維持していた価値観は『どうでもいい』ことだと思う。

 

大切なのは、他人からの評価もある程度参考にはなるが、自分に優しさを与えることだ。

「自己愛」はエホバの証人時代では禁止されていたことかもしれないが、実際聖書には「まず自分を愛する」ことを定義づけられている。だが、それを上書きするかのように「隣人愛」をものみの塔聖書冊子協会は叫び続けていた。

隣人愛は自己愛ありきなのに、それを凌駕するかのように「無私の愛(アガペー)」をのたまわっていた。自己不在ありきの愛であるが、そこには本質的にいった愛はないのは証左のとおりだ。

 

自分を愛することで温かみが増し、そして他者の痛みを知ることができるのに、エホバの証人の二世たちはそれらを学習することなく、イエス・キリスト的な、ただ自己犠牲が最高の生き方と教えられてきた。

僕はこの価値観で大いに社会的にも躓いてきた。でも、自己犠牲には一切価値はないことに大いに時間を要し、そして多く傷ついてきた。この価値観に意義はないことを悟ったのはつい最近だ。

 

他人に厳しさを追求する時代は終焉し、

自分に優しさを与えることで、人にも優しさを与える時代がすでに来ている。

そこには相手に自己不在的な生き方を求めることはなく、お互いがお互いをいたわり、そして慰め、共に笑い、そして鼓舞し合うことしか求められていない。