エホバの証人二世の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

人を嫌いになる自分も受け入れる

エホバの証人時代、人間は完全ではない、という教えがあったと思うがそれは当たり前だと思う。完全の定義については人それぞれだから今更その定義について話し合っても価値観は大いに異なるから話し合ったところで平行線をたどったものになるだろう。

またエホバの証人時代には「隣人愛」については大いに語られたが、これも変にハードルが高いものだったりするのではないだろうか。友達百人できるかなではないが、愛するということは親しみさが関係してくる。隣人を愛することはアドラーも価値が有ることを認めてはいたが、果たして、自己不在になるまで他人を愛する価値はあるのだろうか。

否、ない。

 

というのも、自己不在になることの不価値さについては以前に多く語ったので割愛するが、自分の持つ価値観は大事にするべきではある。それによって個人という個性を作り上げ、嫌いな特性を受け入れないで拒むことにより、自分の性格に対して否定しているものを身につけずにすむものだから。僕は自己達成及び自己到達はすごく大切なものとして扱っている。それを遠ざけるものとして自分の嫌いなものを受け入れるということとは相異なる性質だと思っている。先ほどの記事で述べた「認める」ということと、「受け入れる」という言葉は異なる点に注目して欲しい。

「受け入れる」ということは自分の中で咀嚼して自分のものにする性質があるのではないだろうか。そういった嫌悪しているものはわざわざ受け入れる必要性もないものなので、嫌っても構わないと僕は思っている。

「認めて」おく、ということは大人の対応だと僕は思う。わざわざ子どもが嫌な行動をしてもそれを注意はするが、嫌悪するまでには至らず、その子どもの行動までをも自分の中でコピーしようとい思う人がいるだろうか。そういった意味合いがある。言うなれば認める、ということは、自分よりも幼い子どものような人間のすることにしか過ぎず、故にしょうがないと思う感情、ということないだろうか。確かにアドラーや多くの人は縦の関係にシビアに物事を捉える傾向はあるが、この自分との比較の点においては問題はないのではないだろうか、という感覚が僕にはある。というのも、この点に関しては縦の関係性というよりも、「許すか許さないか」という問題が関係しているからだ。許すことは大いに愛のある行動ではあるが、許さない、という行動に関してはあまり愛のない人間のすることではないか(許すことについては過去の記事を参考にしてほしい)。

jwjr.hatenablog.jp

話が逸れたが、人を嫌いになったとしても、その存在を許す事ができるのであれば、それは許される嫌悪感だと思う。僕も母親のような人間にはなりたくない、お金に無頓着な人間にはなりたくない、と思うが故に母を嫌ってはいるが、存在は許している(そもそも殺すほど憎むというまでに達してはいない)。彼女にも生存権はあるが、その生存を認めるからといって彼女の真似をしたいと言うわけではないことから分かるだろう。嫌悪は自分の中によリ嫌っている事柄を受け入れないことを自分の中で認めていることで、さらなる高みに達したい自分の大切で大事な感情ではないだろうか。だから人を嫌っても構わない、むしろ嫌悪すべき人間に対しては嫌っても構わないと僕は思ってる。エホバの証人時代のあの姉妹が、あの兄弟が嫌いだった、と思うなら、その兄弟姉妹の持つ特性をとことん嫌悪しても構わないと思う。そうすることで、自分にその嫌悪する事柄がコピーされないならさらなる自分の高みに目を向けていることの証拠だと思う。でも許すことはすごく大切だから、嫌悪していても許すことを忘れずにいて欲しい。

 

嫌悪の種類にも「同族嫌悪」というものがあるが、それはそれで構わない。それも自分に対する嫌悪の現れならば、成長の余地が考えられる。自分のこの箇所が嫌いだな、と悟る事ができれば、なお一層改めることができて成長に繋がる。同族嫌悪は実際多く存在しているが、その嫌悪感を進展させたところに、そのより高みにある嫌悪感を自分のものにできればなお一層、自己達成に繋がる。ぜひ同族嫌悪を抱いている、と感じたなら、その高みにある自己嫌悪を見出してほしい。 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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今こそ!「嫌われる勇気」 仕事に効くアドラー心理学 週刊ダイヤモンド 特集BOOKS

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