エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

元エホバの証人二世に大事なこと - 無思考化する

過去の傷としてエホバの証人時代があるといった二世の方々は知らない世界で多くいると個人的に思っている。

道行く、通りすがる人の中にも実はエホバの証人二世だった人もいたはずだが、そういった傷を負った面を見せずに健気に、そして強く生きている人もいる。

その強い人の特徴はなんなんだろう、そして過去の傷ばかり見て自爆してしまっている僕はなんだったんだろう、と思うとその違いを知りたくなる。

人は強くなければいけない、といったルールはそもそも無い。

強くあればあるほど有利な人生になるということにしか過ぎない。

ということは、強くなければ不利な人生になるということでもあるが、人により傷が重枷となって強くなることを拒絶または阻害することがある。そういったことを考えないで、そして相手の傷を見ないでただ、「強くなれ」というのは無責任の為せる業だ。

でも、実際の人生は強者が生活しやすいことには変わりなく、そして一部無思考化することによって心を疲れさせないスキルを持つことを促している。

無思考は人を鈍化させる作用もあるが、本当は心に余裕を持たせる作用も持ち合わせている。

ずっと神経をすり減らす作業や仕事を続け、そして心に余裕を失うことで得られるのは疲労感ばかりで、周りを見回す余力をも奪う。 そうなることによる弊害は孤立を生み、そして自分が本来持っている優しさや楽しい感覚をも奪う。

そうなるくらいなら、無思考になれるスキルを持ってまったり生きることに専念してもいいかもしれない。

仕事や日常生活たちがそれをさせてくれない、という意見もあるだろうが、果たしてその仕事や日常生活たちは人生を豊かにするためになにをなしてきただろうか? 仕事に追われ他者との比較による日常生活に焦らされ、たどり着いた先が自分の想像をしていなかった孤独や虚無感ならまだ強さに近い無思考を持って余裕を作り、それからなりたい自分になる方が好ましい。

結果、それが強さにつながるなら、人としての尊厳を持てる無思考を極めたほうがいい。

夢ばかり見て現実を見ていない発言と捉えられるかもしれないが、余裕のない人生を謳歌するくらいなら、自分の本質を持って人生を味わいたい。

古傷を見ることもない無思考からくる余裕のチカラは、邁進する自分を見ることに繋げやすくなり、そしてそれがとてつもない可能性を持っている。

それなら突き進める自分になるほうが強さへの近道だから、僕はこの無思考を突き詰めていこうと思う。