元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

進化を止めるな(気力・活力編)

興味深いことにこの元エホバの証人二世のサイトは、20代のアクセスはさほどなく 30代40代に集中している(Google Analytics の年齢データによる)。 今の20代はもはやエホバの証人の「畏怖の念」という概念はなく経済がすべてを左右することを把握した親の持ち主の子供たちだったのだろう(なぜ子どもたちと断定するのは、このサイト自体一世をターゲットにしていないから)。 ゆえにこのサイトエホバの証人二世であるこのサイトを見ている人たちは、いまだに傷が癒えていない精神的重症な方か同感により何かしらカタルシスを得られる人たちなのだろう。 その分析はまだ満足にできてはいないが、アクセスしてくれるだけで個人的にはとても嬉しいし個人的にはもっと認知してくれることで傷を負っている人たちにとっての癒やしの存在の場所になれるよう尽力したい。

それにしても、その中年に差し掛かる世代となっても、傷は癒えるどころか深く染み入ってしまったものであれば容易に完治するものではないことを僕は知っている。僕自身もそうだったから生きる意味に関する書籍を読み漁ったくらいだ(余談だが、最近では「ホモ・デウス」などがオススメだ)。

ではどうやって心にえぐり刺さってしまったこの槍を抜いて、さらにその貫かれた傷を治すことができるのだろうか?

進化する

エホバの証人は進化論を否定することによって神の存在を覆させないものへと昇華させてきた。進化論を認めてしまえば神は不要で傲慢な存在であることを意味する。それは意地でもものみの塔聖書冊子協会は否定したいことだっただろう。 さらにいえば、その進化というワードはものみの塔聖書冊子協会にとって信者の操作性を失う存在へと化けさせる。それほど「進化」というものは危険で、逆説的にいえば信者からすると自由へとつながるパワーワードだったのだろう。

しかし僕ら元エホバの証人二世は進化するという自由も選ぶことができる。それならば進化したほうがいいが、そう簡単にできるものではない。進化をするには以下のものが必要となる。

  • 気力・活力
  • 目標・目的
  • 希望

これらについて何日かに渡って書いていこうと思っている。

元エホバの証人二世の『気力・活力』

心理学の用語で「セリグマンの動物実験」というものがあるが、これは日本で言えば『学習性無力感』というものであり、人は回避できない状況の苦しみが続いていると、その場から離れるという判断ができずその場に留まってしまう。 エホバの証人二世であればこの気持ちは重々理解できるものでないだろうか。 僕たちエホバの証人二世はこの苦しみを経験し続けたゆえに脱エホバの証人という判断ですら奪われていた。精神的な苦しみを経験させられ続けることしかそもそもできなかった。

今、元エホバの証人二世となったとしても、奪われた幼少期の頃から培われ続ける気力・活力の器はとても小さく満たされても、一般人から見ればおちょこほどの気力や活力しか持つことができない。そのおちょこ程度の気力・活力でどうやって次の段階である『目標・目的』というものを持つことができるだろうか? ただ日々を生きるだけの生活から「目標・目的」なんて容易に見つかるわけがない。電車の中の状況を知っている人は知っているだろうが、ほとんどの人がスマートフォンでなにをしているだろうか?だいたいの人たちはゲームではないか?もちろん中には LINE や twitter など SNS を楽しんでいる人もいるだろうが、これもある意味同系列なものであると僕は思う。共通していることは虚構の空間での自己実現及び、虚構の承認欲求である。ではなぜ働きそして勉強に疲れた人はそういった仮想の世界に潜り込む事ができるのだろうか?それはエホバの証人二世たちのように精神的無気力状態になったからだ。 やりたくもない仕事、したくもない勉強。それを強制させられて使役させられているのであれば人は気力を失う。その癒やしの手段として手近な虚構の世界を誘うのだと思う。

もし電車の中で気力・活力にあふれている人ばかりならどうなっているだろうか?みんな移動の時間を使って勉強したり副業的なことをしたり自分を高みへと誘う書籍を読みまくっているのではないか(逆にこれはこれで地獄絵図な気もしないが)?

人は気力・活力がないゆえに自分を容易に辛くても今のままを停滞させるようになっている。それほど気力・活力は大切なものだ。

ではどうやっておちょこ程度の気力・活力の幅を広げる事ができるだろうか?

余裕を持つことである。

その余裕の源泉となるのは人により異なるので断言はできないがこれだけは言える。世間体を意識すればするほど気力・活力は奪われ萎縮していく。ならどうすればいいかは言わなくてもわかるだろう。世間体を持たず自分の思うままに生きることだ。簡単に言っているがそんなことはできるはずがない。ただここで断っておきたいのは自由に生きるために自分を犠牲にしまくる必要はないということであって、ルール規範は守らねば結局は自分に返ってくるのでオススメはしない。この場合の世間体というのは強制的に強いられた「社会的道義」のルールであって、それを破ったとしても制裁が加えられないものである。

たとえば、離婚することは果たして悪だといえるだろうか?世間的にみて離婚された男性は何かしら不具合があってさせられたと判断するであろうが、それは世間が勝手に考えることであって自分が決めることではない自由がある。

昔では同性愛は禁忌とされてキリスト教世界内では『罪』とみなされてきた。だがしかし、今はどうだろうか?ダイバシティが当たり前だとみなされることによって同性愛もテレビで堂々としている人もいるし、性の多様性が認められたことから自由を得られた人も多くいる。 世間体といったルールは簡単に変わっていくもので不変的なものではないということだ。

では世間体といった気力・活力吸収物質のためになにか僕たちはしなければいけないことはあるだろうか?世間体といったブラックホールに関わっていつづけることは結局のところエホバの証人時代と同じことであって、無気力にさせる自分を生成することではないか?ゆえに世間体といった感覚に自分をあわせるのではなく、気力・活力を生成するために自分を持ち続けよう。そして余裕を持つために勉強する働くといったことは問題ない。それが次の『目標・目的』につながるから(続く)。