進化を止めるな(目標・目的編)
そもそもだが、目的や目標を持つことなんてかなり難しいことである。エホバの証人二世には目的なんて持てる精神状態はなく、親たちに強いられたレールの上を走らさせられるだけの人生だったがゆえに生きることだけで精一杯だったのではないか?
でもそこで敢えて僕はこの目標・目的を持つ意義について言いたいのは、自分の人生をこんなブログを見ている人に言いたいからだ。
人はいずれ死ぬし、生きている途中で病気および怪我をして思う存分に生きることなんてできるはずもない。そもそも論だが、人は満足に生きることなんてできるはずもない。孫たちに囲まれて幸せに大往生できる人生は今の所僕は見たことがない。孫がいるからといって人は幸せにつながるかといわせてみればそれは嘘になる。孫がいても懸念材料が増えるだけだ。
それでは目標・目的の意義はなにか。それは自分のエンジンへのガソリンにつながることだ。 以前気力・活力について言明したが、これはガソリンの元になるものであってガソリンの本質のものではない。本当にガソリンとなるものは目標・目的が明確化されたものであって、それらがうまく機動することから生きている実感を得られるものである。
以前の記事ではお猪口程度のサイズで気力・活力を持つことができるか、ということを書いたが、目標・目的が明瞭化することから人はそれらを持つことができることについては明言しなかった。そう、人は目標・目的を得られれば強くなれる。
では目標・目的は何にするべきか、それは自分で決める事であって僕が決めることではない。余談だが、僕の目標と目的は愛する人とともにいることである。捨てられるならそれで構わない、僕の愛し方が下手過ぎただけのことだから。でもそんな僕の愛し方を理解してくれる彼女や親がいる。それで僕は満足だ。
これが僕の進化論だ。エホバの証人的な愛し方なんてくそくらえ。愛し方をご丁寧にご教示頂いてもそれは本質的な愛し方なんかじゃない。自分の形の愛し方こそ本質的な愛し方だ。まだ宮沢賢治的な愛し方の方こそ本当の愛し方だ。僕はそういうものになりたい。