エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

エホバの証人二世の鬱は「甘え」か?「原罪論」から来る弱さなのか?

twintailsokuhou.blog.jp

という、さっきとりとめもない記事に遭遇した。

結論は概ね >>9 のこの発言に尽きると個人的に思う。

 

[ 9 ]
甘えでも鬱でもどっちでもいい
そいつが使えないことに変わりはないんだから
社会はそいつを置いて行く
以上

 

これをどう捉えるかは、人間が進化していった経過による事や、人(とりわけ強者には顕著に現れる事象ではあるが、それら)は弱者を救済「しないように生きている」ということだ。

言わなくても分かるだろうが、「弱肉強食」は社会のありきたりな生命体のリズムであり、逆に言う「弱者救済は必須であり、その人にも才能が(略)」というのは現在の経済から成り立っているリズムに反した生き方の一つにしか過ぎない。

そう考えると、今の日本はあまりにも弱者救済が整っている国ではあると思う(いわゆる「社会主義として成功している国」とゴルバチョフ書記長が言ったのが証左のとおりだ)。

 

過去のブログの記事でも言ったかもしれないが、僕は自分の IT のスキルをある程度用い(当時、「Open SNS」というモノを利用させていただいた)、エホバの証人二世の SNS を初めたことがある(言っていなかったら恐縮だが)。だが、この手の SNS は活性化することもなく(収益化するスキルが僕には持ち合わせていなかったのも原因だが)、閉ざせていただいた。

誰も過去の傷に触れたくはないが、ある程度のカタルシスだけは得られたいのだろう、「私もこれはこうで」といったことであったり、「僕はエホバの証人二世時代、恋愛が禁止されていて」といったことのトピックという名のスレッド(スレッドというのは2ch((今は5chか?)))は一切立つこともなく、だれも盛り上げ役に徹しようと思われなかった。

 

社会に有用な人はこんな感じの人だと個人的に思う。

 

・旗を振る事ができる

・旗を振っている人をサポートできる

 

傍観者はただ、旗を振っている人を見るだけだったり、サポートという名のいわゆる片手間での応援であったり、共感だけは出来る「甘えの構造」という本であったようなリスク回避型な人間だったり、批判することで自我(自分は強いという誤ったアイデンティティ)を保つことが出来ない弱すぎる人でしか過ぎない。

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

 

 

では、エホバの証人二世は甘えで形成されているのか、と言われれば、僕はこう言う。

 

「Yes が 8割、No が 1割、残り 1割は混沌の最中にいる」

 

残りのこの「混沌」まで達するには非常に難しく、そしてそれには自分に対して険しい見解しか持てないようにする過程が必要である。それに達すると残りの「甘えで形成されていない」類に達するものだと思う(「Yes」の 8割の内訳は不明だが、その中には「諦め」で自分の生き方に向き合っていない人は数多(あまた)いると思われる)。

 

正直、親や他人、兄弟姉妹やリアルなきょうだいの責任にするのは容易い。

しかし、そこには自分で選んだ道である、という見解を失いかねない。

 

確かに親の庇護の元、子どもたちは生きなければ生きられない。

それに伴い、親たちは、エホバの証人二世に対して生物学的な「生存権」を人質にし「親の生き方及び『イエス・キリスト』の生き方をなぞらねばならない」と厳しく教育してきたであろう。

しかし、それら社会的に生きる事ができるのであれば、そういった「群れる」いわゆる集団群衆的な生き方は捨てることは可能ではないだろうか。

そして、それから得られる素晴らしい自由に関しては過去記事で述べた。

 

なあなあでエホバの証人を続けて「親の面目」のためにエホバの証人を続ける必要なんてさらさらない。

それなら自分の力で生きることの方が楽しいし、そこには親やエホバに対しての「甘え」は必要ない。

 

言い忘れていたが、「原罪論」について述べるつもりも一切ない、原罪なんて進化論及び「棲み分け」論が一蹴している(棲み分け論については Google が教えてくれるし、今出版されているいろんな書物が優しく教えてくれる。検索が面倒ならば

http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page28.html をご覧ください

)。

 

生まれつきの罪なんてあるはずも無いことは自明の理ではある。

 

だが、人には持ち合わせの「強さ」もあれば「弱さ」も持ち合わせている。

鬱が甘えで弱さならば社会的な断絶に繋がるが、自分が持ち合わせている「強さ」にのみ集中してみればどうだろうか?

僕には「他人の痛みを知らない」といった致命的な「弱さ」を持ち合わせているが「論理武装できる」といったことで「弱さ」を「強さ」に置換しているつもりではある(言うまでもないが、この手の論理武装をしたところで女性にモテることは一切ない)。

だが、全てを、鬱を「弱さ」としかとらえられないことに対しては僕は断固として否定する。

鬱の人には鬱なりの戦い方があって、鬱にならない人には鬱になれない人なりの鈍感さと言った弱点を持ち合わせている。

それらを鑑みれば己の強さ及び弱さに気づき、それを「強み」に変換できる方法を考えて、お互いがお互いを邁進できる進化的な姿勢を持つことが出来るのではないだろうか、と、個人的に離婚を経験してから気がついた。

 

そして、先程の記事の >>9 の発言であるが、

 

「社会」はそいつを置いていく

 

とあるが、これは言ってみれば「社会」としては置いていくのは今の経済資本主義の生き方では当たり前ではある、といことであって、情に厚く優しくそして温かい人といった人間性の持ち主であれば、「人」は「そいつ」を拾っていくものである、ということでもある。

今、こんな僕に付き合っている彼女がいるが、「彼女」は「粗大ごみ」を拾っていくタイプである。そのゴミは捨てた人にとってはゴミでしか過ぎないが、彼女の目から見れば「宝」に映ったのだろう、そんな彼女が自転車をUターンしてその捨てられたものを「救済」する姿を見て微笑ましくなった。

 

話がそれて申し訳ない。

 

いうなれば、自分に持ち合わせている武器を強みにして生きていく、ただそれだけで頑張れる自分を作っていくしか他ない。だが、それが「鋭利」なものになると凄まじい武器になることは僕が請け負う。

実際、それが今の僕だから。