元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

人生に正しさ(楽しさ)を求めない(2)

全ては僕から起因した出来事だ。

だから僕は自分しか責めることができなかった。

 

元妻は去り、小規模共済も解約し、そこから得た解約金からの所得から大きすぎた家(3DK)を離れ、今は大阪のこじんまりとした部屋(2DK)に住んでこのブログを更新している。

 

余計な話だが、一部屋は食事を取る所。

もう一部屋は睡眠の場所。

そしてもう一つは仕事を行う(iMac 5Kなどがある)場所だ。

 

でも、言うなれば負け犬だ。

捨てられた男なんて砂の数ほどいるだろうが、その中でも最上級の負け犬の気持ちで当時は溢れていた。

 

だがしかし、正直言ってこのサイズの家に安住している僕がいる。

 

お互いがお互いを監視しあい、そして縛り付ける生活だった。

元妻が選んだ自由だったが、僕のほうが自由度が増した。

元妻には子ども(赤ちゃん)がいる。

それによる束縛も大いにあるだろうが、僕にはそういった呪縛も束縛もない。

 

独身貴族になり、気を使う事がなくなり、

そして、それが自分への謳歌へ繋がった。

 

僕に付いていた診療心理士のカウンセラーの先生は

『あなたはもう乖離しないでしょう。奥さんによる束縛から離れたから』と仰っていた。

確かに元妻がいなくなってから解離的なことがなくなった上、経済的にも余裕が若干出来た。

そして無理な仕事もすることがなくなり、時間的に余裕も出来た。

 

僕は孤独を満喫できる時間が出来、それがとてつもなく嬉しい日々でもあった。

 

 

生まれてきてから38年経っていたが、僕はようやく自由を得た、と実感したのが今(現在)だ。

 

元妻は僕に依存することで自我を保っていたが、今回の妊娠の件で、いや、そのおかげで僕は自由を得ることが出来た。

 

懸念材料は300日問題くらいだが、僕には責任はない。

仮に元妻の子どもが僕の戸籍に入ったとしても、その子どもに相続させる遺産は残さないつもりだし、介護してもらうつもりもサラサラない。

念のため、DNA鑑定をしてもらうように家庭裁判所にお願いしているが、期日の100日まで迫っていても元妻はそのお金(86,400円)を出していないのか、家庭裁判所から携帯にも連絡がないし、郵送も来ない。

でも正直どうでもいいやとなっている。

諦めの境地的な意味合いではなく、

 

自由を得る事ができたのは自分のクソ真面目さを捨てることが出来たことで、本当の自由を得ることができるんだ、ということだ。

 

一般的に言って、「離婚」という事象はネガティブな意味合いがあるが、僕は正直言ってそうは思わない。

しょせん他人同士の付き合いで他人がお互いの価値観をぶつけ合うのが結婚で、妥協点を見出し、そしてそれぞれが折れるところで折れて、折れられないところで怒ったり憤怒をぶつけ合うのが婚姻生活だと僕は勝手に解釈している。

 

 

マダガスカルで発見されたボノボと僕らホモ・サピエンスは似ているという。

ボノボは乱婚で、そして人類も乱婚である、ということだ。

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

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それを宗教により、夫(及び妻)にのみ純潔を捧げよ、といういわゆる「介入」が「宗教」であって、それが万人の「道徳」ではないことが肝だ。

日本人でもそういった宗教の介在を意識しないで元旦にそばを食べたりしているだろうし、クリスマスには彼女(もしくは彼氏)にプレゼントを用意しなきゃと辟易としている人もいるだろう。

特に誕生日は相手を崇拝する行為として何かしら貢物を用意しなければいけない。

それはいわゆる「宗教」とどう違うのだろうか?

 

エホバの証人時代にいつも笑顔で(でも目が死んでいた)姉妹がいたが、その人が言っていた言葉だが、

「プレゼントを用意するのに期日はいらない、

 いつプレゼントされたいかの方を考えるのがいいじゃん」

というようなことを言っていた。

この姉妹はそういった悟りの境地に至っていたんだな、と思うと感慨深いものがある。

そして、僕はそれ(プレゼントする行為)を現在進行形では彼女に対して行っている。アメリカ映画でよくある「サプライズ!!」のようなものだ。

 

脳科学によると人に報酬を与えること(相手が確実に喜んでくれるものを与えること)は眼窩近くの脳に刺激が走り、自分も幸福になるという。

苫米地式「幸せ脳」のつくり方-「本当の自由」を手に入れる いちばん簡単な方法 (East Press Business)

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 僕は彼女が喜んでくれる、その笑顔がとても素敵に見える。

 

「優しさだけじゃ生きられない、別れを選んだ人もいる」

「再び僕らは出会うだろう」

「この長い旅路のどこかで」

 

と Mr.Children は歌っていた。

でも、僕は次の歌詞に生きているつもりだ。

「果てしない闇の向こうに、手を伸ばそう」

 

人生予見できないことしかない。

正しさ(無思考の快楽)は時として毒になり、そして相手を傷つけ、そして「別れ」をも促す。

そして、その別れは決して悪いことではなく、鎖を、過去のしがらみまでをも解除する「解毒剤」にもなりうる。

 

僕は再び自由を得た。

そして2本足で立って、歩いて、転んで、骨をいくつか折って、今の自由を謳歌している。

確かに現在の僕には彼女はいるが、その別れがあることを前提に付き合っているわけではない。

 

『人生フルーツ』 のように僕は生きたいと願っている。

きのう、きょう、あした。

きのう、きょう、あした。

 
ふたりからひとり ~ときをためる暮らし それから~

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僕は永久に生きられないことを当たり前だが知っている。

アドラーの言う「他者信頼」の元、僕は生きている。

でも最も大事なのは「自己受容」だと思う(そしてそれは現在、僕の課題でもある)。

 

自分を認めることから全ては始まる。

他人の評価や優しさを当てにしていてはいけない。

自分を認めることで、他人を評価できて、そして、他人に優しさを与えることで、人生に楽しさが見いだせるものだから。

 

「あなたは、悪くない」

と、ロビン・ウィリアムスは「Good Will Hunting」の中で言っていた。

 

 

そう、ただそれだけのことなんだ。