エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

人生に正しさ(楽しさ)を求めない(1)

エホバの証人二世(子ども)時代なら、正しいことを行え、ただただ楽しいことは避けろ、と教えられただろう。

確かにどちらも正解でどちらとも不正解だ。

 

人生なんて聖書時代と較べて社会も変わってる(異なってる)し、自己快楽のみの追求であれば将来の自分像も失う。

 

聖書時代(正確に言うと、聖書筆記時代及び聖書を『聖典』とされた時期)と比べると社会は複雑化し、価値観は大いに多様化している。権力は宗教及び社会から変わり変わって個人に変わってしまう始末だ。

心理学が発生したり脳科学が発達したり社会心理学では自立と自律が当たり前の社会だったり、経済学によると「鋳造された自由はお金」なので多くの富を得ることだったり etc...

 

そんな複雑化した社会で一つの価値観で生きることなんで出来はしない。

 

言ってみれば正しさの保証及び保障なんて存在しないことだ。

 

では何に保証及び保障を求めるべきか?

 

答えは自ずとわかっているだろう。

 

 

自分の人生の責任は自分でしか負えないことを。

 

 

正直、親や他人の責任にして生きることは楽だ。

なぜなら自分が悪くないから。

自分が選んだ人生ではなく、「選ばされた人生だった」から。

 

それなら、僕たちは人の敷いたレールの上をのんのんと歩けばいい。

それほど楽な生き方はない。

 

でも考えて欲しい。

それは、決して自分の好んだ生き方だろうか?

 

エホバが望んだ生き方は、果たして自分が本当に望んだ生き方だっただろうか?

 

エホバの証人の二世及び子どもなんなら三世までも知っていることだろうからあえて言及しない。

自己不在の生き方を強いられた生き方で自分を保とうということなんて出来ない。

 

 

つい最近、僕は妻を失った。

 

 

元妻はいわゆるこの世の女性であって、僕が悲しめば一緒になって悲しんでくれる人だった。

そして理知的な女性で、自分の感情に動かされない、ただ知識と情報と辛かった過去を持ち合わせた人でもあった。

そして、僕も元妻の話を聞いて同情し、お互い理解ある関係だ、と確信はした。

 

だが僕はその元妻のその優しさに甘えに甘えてしまっていたんだろう、僕の稼ぎが少なったときも元妻は健気に支えてくれていた。

だが、その元妻のリミッターも超えたのだろう。元妻は僕以外の男性と性交渉をし、そして彼の元に走った。元妻は彼氏の子どもを身ごもった。

 

言ってみれば自分の不甲斐なさから起因するいわゆる「社会的に鋳造されたもの(すなわちお金)」による支配には元妻は勝てなかったのかもしれない。

元妻が付き合った彼は知的でスタイリッシュで僕には持ち合わせていないもの(スタイル)の持ち主だ。

言うことでもなんでもないが僕の BMI は 19.2 なのでデブでもガリでもないが、元妻が選んだ彼氏は僕に持ち合わせていない服装のスタイルの持ち主だったのだろう。

僕はダサい格好しか出来ない田舎暮らしの母親及び父親に育てられたからそういう感覚はなかった。だが、元妻はそう言うところも嫌いだったのかもしれない。

僕に何かしらスタイリッシュでカッコイイ男性でいてほしかったのだろう、でも僕にはそれができなかった。


「被服的自己愛」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/senshoshi1960/28/1/28_1_25/_pdf

という論文がある。参考文献が 6件と微妙なところだが(本来なら二桁欲しいところ)、元妻は僕の自己像に実際は嫌気をさしていたのだろうと思う(それについて現在進行形で付き合っている彼女の話もあるが、それは後日語る)。

 

僕には

・経済的に築き上げたものを失い、

・信用を失墜し、

・元妻に僕よりも素晴らしい人が現れた

 

ということだ。

 

そして、元妻が妊娠した、という報告を元妻から受けたとき、素直に、ただ率直に『おめでとう』と言った。

しかし、元妻は言う『彼氏は彼氏の信念を貫いて自分(この場合、元妻)を捨てた』と。

 

世間一般でいうやり逃げだ、と僕は直感した。

 

元妻の彼氏は言語中枢に特化した発達障害で、元妻はそれにやりこまれ逃げられたのだ。元妻は言語中枢特化型の発達障害ではなく、論理を捉えることに特化した人間だ。論理(ロジカル)に言語(感情)は勝つ

 

余地がない。

 

元妻は彼氏の元から去った。

 

(続く)