エホバの証人二世の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

過去の傷と過去の栄光にとらわれない

エホバの証人としての過去は、しょせん過ぎ去ったものでしか過ぎず、それにとらわれてしまうと何もできなくなってしまう。

心理学で言う「学習性無力感」といって詳しくは

学習性無力感 - Wikipedia

を見れば分かるが、エホバの証人として私たちはあまりにも長い間ストレスに晒され続けて、結局何もできなくなってしまったのでは無いだろうか。

しかし、それでもその無力感はずっと続くものではない。なぜならば私たちは犬ではなく人間であって、思考と行動でその状況から打破する事ができるからだ。

なぜ打破できるのか、それは人間に備えられているそのものの強さというものがあると僕は勝手に解釈している。人は強さに対して臆病になる生き物であると同時に、それに達成するために無意識のうちにあがく生き物である。

自分に負けることは全てに対して負けていることでしか過ぎず、エホバの証人として生きてきたことは敗北かもしれないが、その敗北感はずっと続けて良いものではないということは無意識のうちに知っていることではないだろうか?

 

また逆に、過去の栄光に囚われることも良くはない。エホバの証人としての栄光のとき、というのはないだろうが、エホバの証人から脱却したときに得た開放感と自分らしさは本当に素晴らしいものであることは重々承知している。だが、その自由と自分らしさを感じたときに得た栄光は刹那でしか過ぎず、そしてその後に得た何かしらの達成感も刹那にしか過ぎない。それに縛られた生き方をする、ということは自分らしさを放棄した行動、すなわち、今と未来に生きていない証拠にしか過ぎない。

元エホバの証人である私たちは過去には生きていない、というよりも、人間みんな過去に生きているのではなく、みんながみんな今と未来の為に生きている。

それらの為に生きることが本来の自分らしさの営みであり、いくら眩しくて輝ききった人生だったとしても、それは昔話でしか過ぎず、それについて高田純次氏は「過去の栄光」の自慢話をしないことを美徳としている。過去の傷がどんなに辛くても、過去の栄光がどんなに素晴らしくても、それを見つめているだけでは何も得られるものはないことを深く心に明記しておいたほうがいいだろう。

私たちは今の輝きの中を、より一層輝くために尽力する生き方を選んでいるだろうか? 自問すると良いかもしれない。