元エホバの証人二世ルデアの傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

誰かを愛する

Kinki Kids の歌であった「愛されるよりも愛したいマジで」という箇所があるが、これはある意味真理だと思う。受動的な愛よりも能動的な愛の方が人は幸せになれる。

エホバ及びイエス・キリストは愛の具現者的な教育がずっとあったと思うが、そもそもそんなに愛される必要があったか考えてみて欲しい。その愛はストーカー的に重く、そしてあえて僕たちに責任を押し付けるような愛だったのではなかったか。イエス・キリストにより罪が許された? それは罪業妄想の人たちは救済するが、二世である僕たちに対しては救いというよりも重しを課せた概念でしか過ぎず、僕たちは生まれ持って幸せになる権利を有する。それを無視したのが強制罪業妄想を植え付けるマインドコントロールだと僕は思う。

そして僕たちは愛する勇気をエホバやイエス・キリストやみ使いたちではなく、人に向けるべきだと思う。もはや存在しないかもしれないものに対する愛よりも、目の前にいる誰かを愛することの方が無思考であっても大切なことだと思わないだろうか。愛も確かに抽象的すぎるけど、さらに抽象的すぎる存在である霊的なものよりも、親近感がある愛の方が僕は簡単にできる。信じさせられた存在、いや概念に対する愛なんてそもそも持つことなんて出来やしないのではないだろうか。

愛することの効能についてはいろいろとある。まず自分が存在していい理由になることと、愛することから幸せな気分に浸れることだ。もちろん愛される人はストーカー的な一方通行的な愛ではなく、相互理解のある愛のカタチであるべきなのは言うまでもない。仮に一方通行の愛だとしてもそれは、相手の嫌がらない程度の愛のカタチであるべきだと僕は思う。例えばアイドルに対する愛や猫に対する愛などはそのカタチだと言えば分かりやすいだろう。そう、相手から愛されることを期待しない愛が本当の愛のカタチだと言えばもって理解しやすいのではないだろうか。

なぜ受動的な愛ではなく、能動的な愛が求められるのか。それは容易さに表れている。そもそも愛されることばかり考えても簡単に愛してくれる人なんて親くらいしかいないかもしれない(だが、その親はエホバの証人だ)。愛されることが当たり前になるくらい聖人君子であればいいかもしれないけど、僕たちはしがない一般人だ。愛されることばかり考えて、ファッションに気を使ったりしたところで愛されることには容易には繋がらない。ではどうすべきか、というと自分の持っていない特性の持ち主に対する愛を持つことで自己成長へと繋がり、より精神的に高みに移行することが大切だと僕は思う。夏目漱石氏は「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ」と言っていたが、これは僕の中で真理だと思っている。精神的に向上するために、自分の持っていない特性をもつ人を愛することは、強者の現れだと思う。

また、愛する事により、自分の存在価値についてより一層吟味することができる。ここにいていい理由や、存在していい理由にもなる。愛することで自分の存在価値は増し、愛することで心地良い気持ちになれる。また、お互いに愛し合える中になれば、その幸せは累乗化され、その間に子どもや何かしら作品ができればさらに累乗化される。それにより、自己の存在意義は大いに発生する。

多くは語れない「愛」についてはエーリッヒ・フロム氏の本を読了されることを強くお勧めする。氏の本には神への愛についても記載されているが、その項目により神に対して客観視することもできる。またそれ以上に他者を愛することの有益性についてもよく描写されている。

愛するということ

愛するということ

 
生きるということ

生きるということ