エホバの証人二世の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

自己不在から自己存在へ〜ただし自己中心性ではない〜

今まで「自己不在」という言葉を何回書いてきたか覚えていない。エホバの証人の生き方は自己不在の生き方を強いる生き方であり、そこには他者の介入が大きかったことは言うまでもない。

逆の意味合いのある「自己存在」の生き方は今までしてこなかったのでいきなりそれをしろ、と言われても難しい話ではあると思う。自我もよくわからないものなのにどうやって自分らしい生き方ができるのだろうと疑問を持つ人もいるだろう。それくらい自己存在という生き方は急にはできないものではある。

だがよく考えて欲しい。自分は何が好きで何が嫌いだったかを。自分のいない世界で人の言うとおりに生きていく世界は嫌だったのではないだろうか。そして、自分を偽るような生き方はしたくなかったのではないだろうか、と。言うなれば人は自分が好きなのであり、見えない自分の本当の姿を探して生きているのではないだろうか。そして本当の自分はそこにあり、自分を偽ってまでしても従うべきものは本当は何もないことに気づいていたのではないだろうか。

本当の自分はそこにはエホバの証人の組織にないことに本当は気づいていた人も多いはず。人は生まれもって自由を望む生き物だから。その自由を阻害してまでその組織に価値がない、と思ったから元エホバの証人になったのではないだろうか。

 

ただ、一つ注意しなければいけないのは、自己存在≠自己中心性、ということだ。自己存在はあくまで自分の世界があるが、その世界の幅をいろんな人に対してまで侵入していいものではない。それは、自分が今まで侵入されたエホバの証人時代のことを思い出して欲しい。自己存在ではなく、自己不在にさせたのはエホバの証人の戒律であり、そこには自由ではなく制限があり、その制限を加えていたのは誰だったかを。そう、自分の自由を侵害し、介入してきたのはエホバの証人の戒律もしくは親及び周り期待と感情ではなかっただろうか。自分にされて嫌なことは人に対してもしてはいけない、という論語の教えのように、自分も自分を中心にしてもいいけど、人に対してその期待値を持ってはいけないことはすでに身を持って体験したのではないだろうか。自己中心性とは、人に期待し侵入するいわゆる利己的な生き方であって、自己存在とは、他人の存在も認め、その枠内に侵入しない生き方であることであり、そこには各々の自由が存在するということは言わずもがなだろう。自己中心的な人は他人に変な課題を載せてそれに対して応えないと、すねたりキレたりなにかしらの攻撃性のある牙を向ける傾向にあると思う。自己存在はそういった人に何かしら課題に介入することなく、お互いを尊重し自由を満喫するものである。

 

自己不在の期間が長かったなら、心の正直な声に耳を傾けることも大事だろう。自由を心から望んでいたからエホバの証人を辞めたのだろう。疑念があったから辞めたのだろう。そこに本当の自分がいるのはおぼろげながら分かるのなら、ずっと探し続ければいいと思う。人の不可侵なものには近寄らず、笑顔を見せられる余裕を持って今得た自由を満喫しようではないか。

愛するということ

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