元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

元エホバの証人に必要なこと〜主体性を持つ〜

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

 

 

スティーブン・コヴィー氏の「7つの習慣」でもあるが、今まで反応することに対して意識してきただろうか。氏が言うには、「刺激に対する反応は選択できる」という事実を見つけたことだが、では、その反応をどちらの方向に持っていけばいいのだろうか。

孤独→寂しい、といった反応は言ってみれば当たり前であるが、孤独→自分の時間、孤独→楽しい、孤独→金儲けのチャンスなど、実は孤独だからと言って寂しい、という選択をしないということも大事である。意外とこれが出来ない人も多いだろう。

ことさら今では LINE や Twitter などでつながりを求める人もいることは確かだが、その楽しさは麻薬のようなもので、レスポンスなどがあれば脳内麻薬は大いに出てくる仕様ではある。その脳内麻薬が出ない→孤独で寂しいに直結するならば、いっそのこと LINE や Twitter などに費やす時間を大幅に減らしても構わないかもしれない(なんだったら削除したほうがすっきりするかもしれない)。

 

人は一人では生きてはいけないのは言うまでもないが、人に委ねた生き方ではなく、コヴィー氏の最初の習慣である「主体的である」必要がある。エホバの証人時代は受身的に生きてきた人は大いにいるのは紛れも無い事実だが、そういった自己不在では何事も成し得なかったことを思い出して欲しい。少しの達成感はあったかもしれないが、それは人に期待された達成感であって、自分の望んだものだっただろうか? 例えばエホバの証人の研究生だった時はバプテスマを受けることが夢であり、バプテスマの後は補助開拓など、それをすることによって周りから評価されることを希望していなかったか自問自答して欲しい(僕にはそれはあった)。だが、それは主体的な生き方ではなく、人の希望によって生きてきた自己不在の人形だったのではなかったか思い出して欲しい。

 

コヴィー氏は行動には責任が伴うことを言いつつも、その行動によリ成長や成功の機会が大いに変わることを明言している。自分の今までの行動は人によって動かされていなかったか自問してみればわかると思うが、自分は母親やエホバの証人の組織の期待に応えるために存在したくなかった事実からエホバの証人を離れたなら、それはそれで素晴らしいことだと思う。主体的な生き方の第一歩だ。

確かにエホバの証人として生きていれば仲間もいるし、流されるまま生きる事ができて安楽な状態を維持できたかもしれない。ただし、それでは自分の生き方ではなく他人の生き方をなぞった自己不在の生き方であり、何か問題があった時には他人のせいにしかねない(悪魔サタンのせいにもされるかもしれない)。しかし、主体的な生き方は他人のせいにすることなく、生きている道を形成しているのは自分なので改善の余地は大いにできるのではないだろうか。

その責任は自分に重くのしかかっているかもしれないけど、僕からすれば、「責任は楽しい」ということだ。責任を取って自分の道を切り開くことは実はワクワクすることであり、未知なる自分や人との遭遇によっていろいろな気付きを得ることができる。

宗教が嫌いな人には申し訳ないが、ニーバーの祈りのように「変えることができる」のは自分で他人は変えられないことを常に思うことで、日々「変えることができる」自分を変えることによって成長する機会を自分の中で作っていこう。そうすることでようやく自我を持つことができるようになるから。

 

まんがでわかる 7つの習慣

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まんがでわかる7つの習慣2 パラダイムと原則/第1の習慣/第2の習慣 (まんがでわかるシリーズ)

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