元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

他責的・他罰的にならない

過去にエホバの証人として生きてきた人は何かのせいにすることに慣れてしまっているかもしれない。というのも、悪魔サタンがこの世に罪と不完全をもたらした、という事実から、この世を敵対視するように教育させられたからだ。

その教育によって生み出されたのが「他罰的思考」だと僕は思う。エホバの証人の組織は悪魔サタンとこの世を敵対視するために、悪魔サタンもしくは悪霊の責任にしてきた経過がある。その結果、何か不幸があると「悪魔サタンのせい」としてきたのではないだろうか。

こんな話がある。巡回大会に行くために多くの兄弟姉妹たちが乗ったバスが事故を起こした。その事故により数名の兄弟姉妹たちが亡くなったそうだが、ある長老はその事故を悪魔サタンの責任にした。「悪魔サタンが奉仕活動を止めさせるために事故を起こしたのだ」と。

事故なんて悪魔サタンじゃなく不完全な人間が犯すものだと思った兄弟姉妹たちも中にはいただろうが、それは少数の意見で大多数が悪魔サタン及び悪霊の責任にしていたそうだ。

 

このように、なにか不幸があると誰かの責任にしてきた経緯があったと思う。それは言ってみれば、自己責任ではなく、他者の責任にする能力。すなわち、他責的及び他罰的な性格になっていたのではないだろうか。一部長年姉妹として活動してきた人によく見られたが、そういった人たちは自己責任という概念はあまりなく、事あるごとにサタン及び別の兄弟姉妹たちの責任にしていたことも僕の会衆ではよくあった。

 

ではなぜ、他責的及び他罰的な感情はいけないことなのだろうか。そこには自分を成長させる余地を奪うからだ。人のせいにすることは正直ラクでその一瞬の怒りは実は心地良いものだったりする。しかし、ずっとそれを続けると最終的に自己不在にもつながり、何も出来ない人間になってしまう。

以前に過去・敵中心の生き方は、結局それらを変える事ができないものでしか過ぎず、今の自分には現在と未来があることについて明記したが、この他責的・他罰的も根本的には同じである。自分の思考・行動は自分で責任を負うことによって「自由」と「勇気」を得ることができる。人のせいにし続けるとそうした自由も勇気も得ることは出来ず、結果歪んでしまった顔つきになるのだと僕は思う。

また、他責的・他罰的になると、人を信用しにくくなる。人を信用しないということは無意味な孤立を生み出し、結果人を恨みながら生きることにつながりかねない。他者信頼はとても大事なことは以下の書籍に詳しく書かれている。

 

アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉

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確かに犯罪や事故に巻き込まれることもあるだろうが、それはあくまで自分の責任ではなく、他者の責任であることには間違いではない。しかし、その犯罪や事故を中心、すなわち過去・敵中心の生き方になってしまえば、自分の未来は大いにくすんでしまうだろう。犯罪に関しては赦せとは言わないが、その時の気持ちを蒸し返すようだったら今は未来の自分のために生きているだろうか、と考えたほうがいいかもしれない。

 

さらに二世として生きてきて、エホバの証人を辞めた時に、エホバの証人やその組織に対して怒り・憤りはあるだろう。エホバの証人でなかったなら楽しい人生もあっただろうし、経済的窮苦もなかっただろうし、学歴も備わっていただろう。故に、その怒り憤りの段階はあってもいいと思うが、できるだけ早く次の段階に早く移るべきだ。次の段階とは、その辛かった経験を活かし、応用し、昇華する段階、すなわち過去の辛かった心情を忘れることだ(経験を忘れることではない)。その心情を忘れることができない限り、過去・敵中心及び他責的・他罰的な性格は変え難いと僕は思う。

 

・他責的、他罰的な人には自己成長の機会がない

・他責的、他罰的になることによって自由と勇気を得ることができなくなる(自己不在の生き方に戻ってしまう)

・過去の辛かったことに対して怒っても憤っても構わないが、すぐに次の段階へとシフトする

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