エホバの証人二世の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

統合失調症と診断され、後に自殺を試みる

エホバの証人から離れる事に問題はなかったが、自分の性格の都合でいよいよ問題が発生する。

自分の性格は人と較べて糞真面目で、強迫神経症的な面があった。働き先の職場では期待させられ、その結果を出すために惜しみなく努力をする性格だった。おそらくこの性格はエホバの証人によって形成されてしまったのだろうと思う。

その結果神経症的に仕事に取り組み、人と接し、妻と接し、後に解離などの症状として現れる。

文章として書けば数行程度で済むのだが、その時の僕は本当にどうにかしていた。そして精神科の戸を叩くことになる。

何種類かの病院に行ったが、結局地元にある精神科に通うことになり、統合失調症と診断され、大量の薬を投与される。仕事の内容は Web 関係だったのだが、その薬によって頭が回らなくなり、仕事に支障が生じる。そして、妻との関係も険悪化して行き、だんだん人生の意味が見いだせなくなり死に対する憧れが募り、実際にOD(オーバードーズ・大量服薬)により自殺未遂をする。

そして以下のような文章を書いた。

 

オーバーワークとその仕事の意義を評価してくれない上司などの仕事環境により、わたしは廃人と化し、日々の日常に疑問を抱いてはそれがふくらみ、それがはじけ飛び、アルコールにより記憶を飛ばし続けるだけの日々の末に自殺を決行する。 
生きることに疲れた果てにある甘受。それが『死』という言葉。死は何もかも受け入れてくれる。この苦痛を解放し、生きる意義を付させないようにしてくれる優しい状況下にしてくれる。『死』はなんて素晴らしいんだろう。それを考える度、生きているのが正直面倒になり、今の抑鬱状況をも解放してくれる簡単な方法である『死』にすがる。オランダが安楽死を認めた法案が通ったことに憤っている人たちもいるだろうが、この苦痛を解放する能力(チカラ)を憤っている人たちは持っているのだろうか。人間には限られた能力(チカラ)しかなく、科学が発達した今でさえも癌やエイズや自殺志望者の数は減ってはいない。これを今の時点で救えるのはやはり『死』しかない。 
『死』の世界は何とでもなる。想像するだけだ。そしてただ実行し、想像しなかったかったらただそれだけのことだ。生きることに疲弊しきったわたしにはあこがれの世界だった。不思議と『死』という言葉があるだけで生きることに向き合える。死は何事も救ってくれる。 
そしてそれは決行された。薬を良く効かせるためにアルコールを一瞬で死ぬほど飲む。より死ぬことの背中を容易に押してくれる。なんて素晴らしい合法ドラッグなんだろう。アルコールは死ぬ勇気も与えてくれる。そして幻聴も死への甘美を謳う。死ねば全ては解放サレル、と。 
その所作は一瞬にして行った。あっけない。あとは眠ればこの眠りが永続するだけ。そのあっけない所作も素晴らしい死への道へ誘ってくれる。なんでこんな作業を一緒にしてくれる人を掲示板などで募集する人がいるんだろうな、とぼんやり思った。 

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しかし次の瞬間、この目に映ったのは天井だった。天井といってもいつも朝に目が覚めて見る自宅の天井じゃない。病院の天井だった。 

あこがれの『死』はかなわなかったことが悔しかった。幻聴もわたしをののしる。コノ死ニ損ナイ、死ニ損ナイ・・・。 

死がかなわなかったことを悟った時、体のだるさや暑さが著しく感じることになった。意識はもうろうとはしていたが、死ねなかった屈辱をいつか晴らしたかった。それだけ死へのあこがれは強かった。そしてまた、薬が残っているのか、眠りにつく。 

『死もまた生なり』というが、『生』とはなんだ。あらゆる国の経済は破綻し、外資系が乗っ取りと乗っ取られを繰り返し、宗教が人を救うと思えば宗教が人を殺し、科学により情報通信や医療が発達したと思えば、科学により兵器が作られ、経済的に豊かで生きることに苦境に立っている人もいれば、アフリカの恵まれない子どもだけじゃなく恵まれない親たちも内戦などにより殺され、この世の中の平和の持続を願っている集団もいれば、平和ではないことを意識し改革しようとする人たちとどうしようもない人たちもいる。 
利己が利他を排他する。利他愛なんて空想なんだよ、とまるでわたしに教えているかのようだ。私欲によりある人は肥え、ある人は痩せてゆく。弱肉強食の世の中だから仕方ない、と諦めれば解決する人たちもいれば、万人が平和な生活ができるようにするべきだという主張を繰り返し述べてた論者たちが次々に論破されていく世の中。いったい何にすがればいいんだ。宗教は心を救うのか。宗教により癒しを受けるだけでいいのか、生まれ育った所にあった宗教による浄化は必要なのか。わたしには全く分からない。基本的にバカだからだろう。 
日本という国は経済大国として名を馳せていた時からずいぶん格下げされ、それが不名誉であると、とある識者は嘆く。それでは経済は何を救ったんだろう。お金という盲目にさせるドラッグにより、あればあるほど『良』とされ、なければ無いほど『悪』とさせる単純明快なルールによりカタルシスを感じる人だけのためのものなのか。余ったお金は単に恵まれない国の人々にどっかの機関を通して送ればいいだけなんてなんて楽なんだ。それだけで『善』とされるなら、世の中の金持ちは全て善人になるじゃないか。かといって自分の資産にすると『悪』とされるならば、世の中の貧乏人は全て悪人になる。そんなのでいいのか。 

『生』を例えるのに、よく『セミ』の一生に例える人たちもいる。幼虫期の長い期間は地面の中にいて、成虫期の『一週間』という短い時間に空を自由に謳歌することができる。それが『生』の『幸せ』だと。しかし、その幸せは定義づけられた幸せであって、セミには空を飛べることに幸せは感じているのか。そして、『一週間』はセミにとって短いのか。 
昆虫には幸せを感じる感情は無く、本能でしか操作されていない。よって幸せであるとは人間の尺度(概念)での判断(置換)でしか過ぎないだろう。それに『一週間』も短いと判断するのは人間の尺度でしか過ぎない。『地球』の誕生からの歴史から見れば『ヒト』の一生は下手すればヒトから見たセミの寿命よりも短く、あっというまでしか過ぎないだろう。いわゆる尺度の変更だ。『地球』じゃなく、『宇宙』の誕生の歴史から見たら、『ヒト』の一生なんてホコリにもならない。もちろん『セミ』なんてもってのほかだ。 
それでは人生には意味があるのか。その答えは結局の所、人生は一瞬で『人生には意味はない』のだろう。それを考えれば、自ずと答えが見えてくる。 

アメリカのいろんな州で、インテリジェント・デザイン(知的なものによる創作)という説を教えるところが増えているらしい。要するに、ダーウィンが提案したと言われている『進化論』だけではなく、『知的なものによる創作』論をも教えるべきだ、というもの。これじゃエイリアンか神かによって人間や自然・動物は創造されたというのを教えるべきなのか、という安直な疑問が生まれてくる。結局のところ、あくまで説であって、結論ではないところがみそ。アメリカでは、低所得者の間ではキリスト教原理主義といって宗教により人類や自分たちが救われることを願っている。そこにダーウィンが提案した進化論が入ってきてしまっては自分たちの説に疑問を感じる信者が現れる(中には宇宙人による救出を願っている人もいるかも知れない)。それを防ぐために作られた説がこの『インテリジェント・デザイン』論なのだろう。確かにこの説があれば科学的な見地と宗教的な見地で合致することができる。結局のところは自分たち(低所得者たち)は宗教による救出を願っているのだ。これでなにが見えるか。人間は生きる意味を作り出すために、宗教や哲学を創作し、そして科学をも崇拝の対象にしてきたことだ。 
自らを真の宗教だ、と名乗る団体は数多く存在する。神仏混合をもいとわない日本では宗教人口が2億人を超えている。そして、多くの宗教団体では性愛と宗教を絡ませて、『生』や『性』は神聖なものだ、という教えを説くところが多い。過去、『ヒト』を作ることが科学的に判明されておらず、また現在の科学でも『ヒト』を自然の力でなく科学の力で創作することが出来ていないからだ。所詮宗教、されど宗教。ヒトは自ずと『宗教』となる宗教や、『宗教』となる科学、もしくは『宗教』となる哲学、『宗教』となる政治・経済・社会・会社などヒトにより多面的であり、結局の所は自分に適した『宗教』を選ぶことになる。わたしはまだ自分の『宗教』を見いだせないので、結局は『死』が『宗教』に宛われているのだろう。 

 

結局の所、僕はまだエホバの証人のマインドコントロールから脱していなかったようだ。実際のところ人間が生きている意味について考えぬいたところで、井の中の蛙でしか過ぎず、もっと楽観的に、そして客観視出来る人間であればよかっただけなのに、僕はそんなことをすることなく、死を選ぶ決意をしてしまった。

 

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