エホバの証人二世 ルデア の傷跡ブログ

新興宗教カルト宗教の二世が立ち直った方法

エホバの証人の子どもとして 6(開拓者時代)

中学を卒業すると、僕は進路先に NHK 通信教育(NHK学園) を選んだ。

理由は「開拓者」として奉仕活動に勤しむためだ。通信教育ならば、自分の時間が大いに取ることが出来、その時間を奉仕活動として勤しむ事ができるからだ。それが母親の期待であり、周囲の期待でもあった。実際には、僕はただ自分を殺してその道を選んだに過ぎなかった。本当は美術系の高校に進学したかった。

 

今ではエホバの証人の中の情勢的に変わっているだろうが、当時の開拓者は月 90時間奉仕活動をしなければならなかった。一日にして3時間奉仕活動。もちろん日曜日にも奉仕活動をしている兄弟姉妹たちもいた。

中には研究生を多く持ち、その時間を奉仕活動の時間に割り当てている古巣の姉妹たちもいたが、僕のような若い兄弟姉妹たちはトークスキルもさほどなく、「神権宣教学校」による教育も虚しく、ただ家から家へと訪問するしかなかった。しかも「網羅率が高い」地域だったので、一ヶ月に一回、同じ家に別の兄弟姉妹が訪問するスタイルだった。あまりにも訪問されるから、家の人も慣れたもので断る理由もパターン化していったり、訪問する側も断られることが前提で訪問している感覚にもとらわれていた。

 

一日3時間で若い兄弟姉妹たちは家から家への訪問しかない。故に、ある開拓者の兄弟の話によると、炎天下の中、奉仕活動を行っていたところ記憶が飛んでしまったといったこともあったらしい。夏場だから少ない時間でいい、というルールはなかった(何回も繰り返すようだが、今現在はどのようなルールになっているかは今の僕にはさっぱり分からないので、このルールは変わっているのかもしれない)。

 

僕はコンスタントに一ヶ月に90時間以上の奉仕活動を行い、結果配る事ができた「ものみの塔」と「目ざめよ」という雑誌は月に20冊程度、再訪問は数件程度と、成績として一般的に見ればかなり低い部類ではあったが、他の若い兄弟姉妹たち及び網羅率的に考えて妥当な線ではあった。

 

こうして正規開拓者として働き、それ専用の教育も受けたが、研究生が出来ることはなかった。周囲の期待に応えても、自分の信条には反したことを行っているので結果的には良かったと思う。

 

さらに幸いな事に開拓者として数年働くも、僕の会衆の長老たちは僕を「奉仕の僕」に任命することはなかった。僕が惰性で生きていることを見抜いていたのか、それとも、母親に何かしら精神疾患的なものを持っていることから選ばれなかったのかよくわからないが、今思えば、かなり賢明な判断だったと思う。

 

NHK 学園の授業はとても簡単で、教育テレビを見たり教育ラジオを聞いたりしてレポートを提出し、体育としては縄跳びをすることが命令されており、僕はクソ真面目にその命令にしたがって一人で夜中、縄跳びを飛んでいた(一日200回)。飛んでいる途中で、何度も縄跳びが切れたことを覚えている。だんだん短くなっていって飛びにくくなって、余計に疲れた(関係ないが、弟も僕と同じ NHK学園に入るも、その縄跳びをしたことはなかった。しかし単位を落とさずに無事卒業することができた)。

 

NHK 学園を卒業すると同時にアルバイトを探そうとすると母親はそれを止めた。どうやら母親にとって労働は罪悪であり、父親の稼ぎの中で奉仕活動をすればいい、という認識だったようだ。そのことを他の老齢の兄弟に相談すると、かなり呆れた顔をしていたのをよく覚えている。その時、やはり母親はキチガイの部類なんだ、ということを再度認識するようになった。

 

母親の言うことを破り、アルバイト先に時給が高かった「くら寿司」でバイトを始めることにした。今でもタイトなバイトではあるだろうが、当時は新店舗オープンのために、はるばる寝屋川まで行って研修を行った。

やはりタイトなバイトに開拓者としての奉仕活動を並行するのは難しく、バイトの途中で何度も失神しそうになりつつもこらえ、家に帰ると泥のように眠った。

そのバイトと平行して、父親の会社の仕事も受けたりした。父親は映像制作の会社の社長で、僕は父親に買ってもらった "PowerMacintosh 8500/132MHz" というパソコンで、主に "STRATA" というソフトで 3DCG などを遊びながら勉強していた。その甲斐もあって、父親から映像関係に使用する 3DCG アニメーションを作成したりすることができるようになり、お金がそれなりに入るようになった。

 

ただ、ハードなスケジュールとタイトなバイトを続けるのは厳しいと思い、くら寿司のバイトはやめ、当時「ジャスコ」にある室内遊園地(というなのゲームセンター)で働くことにした。ここのバイトはくら寿司に比べてみれば楽で、バイトの友達も出来た。この時になると、もはやエホバの証人としてのライフスタイルは「タスク」でしか過ぎず、単なる母親の様子伺い的な立ち位置になる。実際、母親は持病を振るいかざし集会を休みがちになる。母親に関する記述はまた後々行うことにする。

 

開拓者としての奉仕活動に関しては惰性になり、おそらく周囲もそのような感じだったので、巡回監督から叱責らしきものを受けるが、僕がいた会衆の人たちに変わる気配はなかった(余談だが、その巡回監督は姦淫により排斥されることになったのは皮肉な話だ)。もはや、僕がいた会衆は「仲良しごっこ」の場所なんだ、と認識していくことになる。