愛されるより愛しなさい(嫌うことで権利を得よう)
エホバの証人時代は愛されることが当たり前だったが、
それは自分が相手を愛することを強制されたことから起因するのではないだろうか。
いわゆる隣人愛であるが、それは相手を「嫌う」権限の喪失である。
嫌うことによリ、自己のアイデンティティを保つことができるが、エホバの証人時代はその権利を喪失し、ありとあらゆる人(他人)に好かれることを求められたのではないだろうか。
確かに「愛されるよりも愛しなさい」という言葉は金言ではある。
しかし、それは愛することが前提であって、相手を嫌う権利を奪った聖句でもある。
僕たちエホバの証人二世は愛するよりも嫌って自己を保つことを失ってしまった産物でもある。
だから僕はあえて提言する。
「嫌われてもいい、僕(私)は嫌いなものがあるから、『自分』なんだ」と。
一番恐ろしいものは自分を見失うことで、ロボットになることである。
それはエホバの証人時代に経験した悲しい出来事ではなかっただろうか。
『書を捨てよ町へ出よう。』
これはエホバの証人ではない誰かが言った台詞だが、経験をも奪うのがエホバの証人の出版物だ。
そんな退屈なものを捨てて、
社会に出て、
己を捨てず、
愛すべき人に出会って、
愛すべき人に愛されて、
嫌う人に出会って、
相手を嫌って、
自我を保つことが大切じゃないだろうか。
人間は万人に愛されることなんて出来ない。
愛される為に愛する行為も大切だ。
そんな単純なロジックをエホバの証人時代には奪われていた事実に目を向けよう。
自己欺瞞に満ちた世界から解き放たれたときに、自分が見えるのが怖いかもしれない。
だが、しかし、僕は大声を上げて言う。
怖いのは一瞬であって、自分をごまかし続ける怖さは一生続くから、一瞬の痛みなら受け入れよう、と。
言ってみれば虫歯の治療と一緒だ。
虫歯は非常に痛いが、取ってしまって(状況によっては神経までも取ってしまって)しまえば、痛みは消える。
現エホバの証人二世に言いたいのは、痛みは一瞬であって、自己受容ができればさほど痛くない事案であることだ。
辞めることで自分の立場を失い、友達を失い、社会的に独立されるかもしれない。
でも、そこにやっと見つけた自我(自己)がそこにあるんだから、その犠牲は決して無駄ではない。
だから、辞めよう。
自分を捨てるライフスタイルを。