率先して行動する(好奇心を促す)
以前のこのブログの記事で無気力について解説したが、その無気力に支配されては自分の人生は失われたままだ。
でもこの無気力の「チカラ」は非常に強力で、自ら動くための源をやすやすと奪っていくことに元エホバの証人二世はすでに気づいているだろう。
しかし安心して欲しい。
それは一種のまやかしであって、本当にしたい事、及び本当にしたかったことは自分の心の中にあるはずではある。
・実は好きなミュージシャンがいたけど、(エホバの証人であるがゆえに)そのライブに参加できなかった。
・実は好きな異性がいたけど、(エホバの証人であるがゆえに)好意を伝えることができなかった。
・実は好きな(略)があったけど、(エホバの証人であるがゆえに)いけなかった etc...
果たして自分の望んでいたことは本当に悪だったのか?
僕はそうした欲求を否定はしない(サイコパス的な反社会的行動は除くが)。
マリリン・マンソンが本当は好きだったなら、それはそれで構わないと僕は思っているし、好きな異性が所謂「この世の人」だとしても、その好意を伝えて玉砕するなり成功するなりしたほうが自分のためになる。
大切なのは心残りを残したまま、自分を殺したまま生き続ける苦しさを理解して欲しい。
自分を殺した生き方は、たしかにエホバの証人の母親なり父親の顔を立てる事ができるだろうが、その庇護の元で生きること、生き続けることは永久には出来ない。
エホバの証人の二世たちが理解しているように、ハルマゲドンは実際には来ないし、楽園なんて来やしない。
エホバの証人と言われている鳥山明氏が描いた漫画「カジカ」を読んだ事がある人も居るだろう。
カジカは優しく、そして悪に対しては自分の力で取り除く能力を持っている。
ネタバレを避けるために詳しくは書かないが、鳥山明氏はこのカジカという作品を通じて、本当にエホバが真実の、そして愛の神であれば、罪から生まれた悪の心を全人類から取り除くことも出来るのではないか、と疑問を持ったのかもしれない。
鳥山明氏が未だにエホバの証人であるかどうかは僕には分からないが、僕と同じ疑問を持った人であるとは思う。
以前、エホバは善かについてブログで書いたが、エホバが本当に善であるならば、全人類を救うためにすべての人から罪及び悪の心を取り除く能力を駆使するはずであるのに(そしてその力も有しているはずなのに)、あえてオナニー的な論争(所謂「主権論争」)を僕達人類に委ねて、その上にあぐらをかいている。
その主権論争の結末はもうすでにエホバは知っているのに、手のひらで人類を転がしているようなものだ。
そんな行為をする神が果たして善と呼べるのか?
いや、呼べない。
「罪を憎んで人を憎まず」ということわざを作った人間の方がよほど神のような愛の持ち主だと僕は思っている。エホバは人の罪を赦さない非業な神であるのは証左の通りである。
では、僕達は神なくしてどう生きるべきか、その回答は明らかである。
自分の好奇心を殺さないで、エホバの証人時代のルールを捨てて、自分の心のままに生きることだ。
もちろん、反社会的な生き方を勧めている訳ではない。それは自己破壊的な生き方で自分を殺す生き方すなわちエホバの証人時代の生き方と酷似している生き方でしか過ぎない。そんな生き方をするならばもっと自分の生き方にプラスになる生き方を考えて実践して欲しい。
自分の思っていることは正しいかどうかなんて、他人には決定権が無いことも承知した上で行動をするべきである。
自分を信じて、率先して行動して、転んだらそれから転んだ理由を考えて立ち上がってワラをも掴んで立ち上がるのが本当の自分の人生だ。