元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

孤独に打ち勝つ方法

以前にも書いたことだが、端的に言うと「孤独」は悪いことではない。孤独があるからこそ、自分やその周辺及び多くの人について振り返る事ができる上、「考えるための思考」の習慣をつけることができる。

孤独、と言えば悪いように聞こえる人が大多数であるとは思うが、孤独が無いと他者のありがたみや黙想する習慣がなくなってしまう。それは結局何に繋がるか、というと他者は自分のための奉仕者(サービサー)へとなってしまう。

言うまでも無いことだが、他者はあなた自身への奉仕者(サービサー)でもなければピエロでもなんでもない。他者も孤独を感じる一人の人間でしか過ぎない。そういった人があなたを喜ばせる材料になるかもしれないが、それは時間的観念で考えれば「一瞬」でしか過ぎない。それらに大いに期待すること自体、大いに間違いである。

 

僕も孤独であることを感じるが、その感情に対して別段悪い気はしないし、いろんなことを学ぶための機会であるととらえている。

よくあるのが、友達と勉強する人もいるが、あれほど効率の悪いことはないと思う。人は他人がいることによってそれに頼る傾向があるからだ。勉強に飽きたら他者に声をかけて勉強の邪魔をすることがよくあると思う。それなら最初から集中できる空間を作って独りで勉強したほうが捗る(もちろんスマートフォンはオフにして)。

 

また、逆に人がいっぱいいる方が孤独を感じる人がいるのも事実だったりする。例えば電車に乗ると、周りの人は自分と関係ない赤の他人だ。そういった他人に声をかけられるほど精神が気丈な人は少ないとは思う(特に日本では)。逆にその孤独の空間を利用することもできる。難しい本を読んだり、仕事の空想をしたり、次の予定を立てたりetc...

何を言わんとしているか、というと、孤独を敵対視しすぎて、それから何も見出すものがなにもない、と考えること自体悪である、ということだ。人は何かに集中すると孤独を感じなくなるシンプルな脳で形成されている。もちろん人から何かを誘われて断って自ら孤独に陥る、といったことを勧めているわけではない。孤独=寂しい、というあまりにもシンプルな反応をするのではなく、孤独=自己鍛錬になる、という公式を脳内に築けばいい。

 

 

 

エホバの証人時代には多くの仲間がいて、そしてどんなときにも友として、兄弟姉妹として一緒にいてくれたかもしれない。しかし、その根底にあるものは兄弟愛と言う名の命令に従事した自己不在の対応でしか過ぎない。中には本心から対応してくれる人もいたかもしれないけど、それはそれで自分の考えではなく、聖書の教え(エホバの証人もしくは統治体の教え)から誘導された回答が用意された根本的な解決にならない精神論だったり、根性論だったりするのではなかっただろうか。そんなことで解決するものではないのは重々承知していたけど、それでもそれに従えなかった自分はエホバの証人失格だった、と思っていた人も多いと思う。だが僕はあえて断言する。そんなことで解決するならば世界中に広まっていて当然だし、解決しなくて当たり前だ。自分自身のルールを他者にゆだねて解決したことは少ないのではないだろうか。例えば、お金がないから苦しい、と相談しても、相談相手もお金が余っているわけではないし、たとえ余っていたとしても、それを譲る、という行為に対して引っかかるものがあるのではないだろうか。エホバ及びエホバの証人はそういった問題に対する答えとして別のものを用意するものである。働き口を提供したりするならまだマシな方で、中には「ゆりですら身を飾るものを用意されている」といった精神論を突きつける人もいただろう。神が結局何かしら助けてくれる、ということを言わんとしているのはわかっているが、それで解決しなかった人も数人僕は知っている。どうなったか、というと、集会に参加できず仕事に走ってしまったり、「上位の権威」に服さずに年金などの税金を納めなかったり。

 

話が少しそれてしまった。エホバの証人だからといって、親身になってくれる人がいたとしても、結局それらの問題は自分自身が解決しなければならず、エホバはもちろん兄弟姉妹たちは究極的に救う手立てを持っているわけではない、ということだ。結局独力で物事を解決しなければならず、それは孤独の海の中を泳ぐことに似ている。

孤独は最初は寂しく、辛いものかもしれない。だからといって、他者を当てにした生き方をする、ということは自己不在に繋がりかねない。そういった生き方は絶対してはいけないことは再三に渡り伝えてきたつもりだ(過去記事参照)。他人に頼る、という生き方に対しては問題ないと僕は思っている、問題となるのは「頼り切る」ことだ。他者は平気で裏切る。親身になったフリをしても、自分のことに問題が発生すると自己に注力する生き物である。イエス・キリストは違う、と言うが、それはあくまで自称「神の子」だからなせる業であり、エホバの証人たちが言う「不完全な人間」であり「不完全な生き方」をしている人たちであれば、それらの行為は出来ないものである。

 

話を戻そう。「孤独」は果たして勝つことが出来ない事象だろうか? 再三述べてきたように、孤独に対して嫌悪感を持っていることが悪であり、むしろ好意的に受け入れることによって、自己成長に繋がり、どんどんとそれらを受け入れていくことによって、強さをも得ることができる。だから僕は強くなりたいなら、マンガ「ワンピース」的に仲間を作りまくる、という生き方ではなく、孤独を愛することから他者の痛みをも理解し、成長の機会として捉えるべきだと思う。神はいなくても強くなっている人のことを考えて欲しい。意外と多いはずだ。だから僕はこんなつまらない記事を読んで孤独について考えた人に強くなって欲しかったりする。