元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

元エホバの証人になったら〜自分を理解する〜

自分自身についてよく理解できている二世などは非常に少ない気がする。命令されるがままに生かされてきたから自分の感情よりも親などの他者の感情を優先させられてきたから、自己不在になってしまう傾向があると思う。自己不在に関しては加藤諦三氏の本により容易に理解出来るが、急激に治るものではない。僕もそれなりに時間を要した。ただ、僕が自己不在を辞められた理由として、他者に対して責任を委ねてもいい理由を知ったからだ。全て僕のせいじゃない、僕じゃない誰か(エホバの証人たちや親たちやその他諸々が)悪かった、ということを認識するだけでいい。それだけですごく自分の心は癒やされたり浄化されたりすることもある。

僕はずっと自分に向き合うことをやめていた。というのも結婚するのも自分の同意もそれなりにあったのかもしれないが、100%の同意での結婚でもなかったし、ただの責任感だけで仕事を行っていたりするケースもままあった。しかし、それも結局は自己不在にしか過ぎず、エホバの証人を辞めた僕だったけど辞めた本質的なもの、すなわち自己不在を辞めることは出来ていなかった(マインドコントロールによるものだと言われれば仕方ないのだろうが)。

しかし僕のせいじゃない、自己不在になったのは誰かのせいだった、ということを理解してからは僕は僕でいられた気がした。もちろん精神的に安定する時期になるまでいろいろと暴走したかもしれないが、過去のエホバの証人時代及び自己不在の時期とくらべてみれば大したことではないようなものだ。

正直な話、自分に向き合って自分の裸の心を見てそれを全て評価するということはすごく難しいことだったりする。目を背けたい心も働くし、それなりに自分がかっこ良く見えるポーズを取りたがる傾向もあるだろう(人間はそんなもんだ。自分の写メを撮るときはキメ顔の人があまりにも多いのもその理由だろう)。でも、それでも自分の裸の心を見て自分の駄目なところに注視すれば、改善できる。例えばニキビがあればニキビ薬を付けるといったようなこともできるし、骨格が曲がっていたらまっすぐにして姿勢を維持するように心がけることもできるだろう。そんな欠損がある自分をも理解することはすごく大切なことだ。エホバの証人時代はエホバの証人ルールで訂正が入るような叱責や注意があっただろうが、今はそんなものは存在しない。裸の自分を見て裸の自分を自分で訂正するために多読しなければいけない。人に言われたから訂正されることなんて正直楽な話だが、もうそれは会社に属していても難しいことだと思う。自己研鑚は自己の客観と主観の狭間に存在するものだ。本当に自分を客観できる人なんていないが、主観よりの客観はできるから、その度合を如何に客観寄りにするかは多読が必要だと思う。

多読については過去の記事に書いたので割愛するが、自分を正直に見ることはすごく難しいことだと思う。不完全であっても構わないが、その不完全さが自分の醜さに感じる場合は余計に難しい。それでも自分を愛することを忘れることなく、自分の欠点を笑って許して訂正することはすごく大切なことだ。こころの余裕がないとそもそも許せるという行為は出来ない。それができるように、自分を見て笑って泣いていらっとして怒って頑張って直していこうと僕自身はいつも思っている。頑張って余裕を作ることが大事だから、僕はそれに向かって努力している。