元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

元エホバの証人〜卑屈な愛し方を辞める〜

今までエホバの証人として生きてきた人たちは条件付きでの愛情を受けていたのではないかと思う。エホバを讃えよ、エホバは真理、エホバは云々……生きているだけで幸せな理由としてエホバの存在があった、とマインドコントロールされていたのかもしれない。そこで考えて欲しいことは、自分は生まれてきたことを望んでいただろうか。生まされて産まされて今にいたっているのではないだろうか。僕は生まれたくて生まれたわけではない、むしろこの手のブログを書かないで済んだ生き方をしたかった。でもそれは叶わぬ夢でしか過ぎない。エホバの子供として生まれてきたから。

だが、そういったことから離れる生き方は選択できた。母親のしがらみから離れる事ができた。すごく簡単なことなのに出来なかった自分の不甲斐なさが笑えてくる。

 

人間は愛されることに慣れているせいか、愛することには不慣れな気がする。愛の定義に関してはエーリッヒ・フロム氏に任せるが、自己不在の愛ほど身勝手な愛し方はないと思う。愛し方として自分の方法は相手にヒットするものではない。こちらから愛し方を変形させていってお互いを愛する方法を作らなければいけない。エホバの証人なら、「愛のキマリ」的なものは決まっていたが、エホバの証人を辞めたなら、自分の形なりに愛さねばならない。愛の原則は正直いってエホバの証人時代の方が楽といえば楽だが、それでは幸せには至りにくいとは個人的に思う。確かに愛は妬まず自慢せず云々という聖句があったが、それはそれで真実だと思う。だが考えて欲しい、愛することは強制されるべきものなのかどうか、と。僕は愛することは自己犠牲的なものだとずっと思っていた。自分を犠牲にして相手を思いやることが大切だとずっと教わってきたが、果たしてそれで僕は幸せになったか、と問われれば、ノーと応える。

 

愛されることによって人は成長したり強くなったりするものなのは言うまでもないが、愛し方についてはエホバの証人時代には本来教わっていなかったのではないだろうか。自分が罪人だから愛することも本当は許されなかったのではないだろうか。そう考えてみれば自ずと答えが出てくる。もちろん無私の愛であるアガペーについては否定しないが、自己不在の生き方を強いられてきたのではないだろうか。

 

神に愛されているから愛する、というのは少しおかしい現象だと思う。一方的に愛されたからといって愛するのは無思考がなせる業だ。相手に対して問題がある場合も愛せよ、というのは強制でしか過ぎない(実際神が殺した人間の数はサタンよりも多い)。大量殺害をしていた神なんか愛せるわけがない。まだサタンの方が可愛い。人間に善悪の思考を委ねたのだから。

 

今まで変な愛し方ばかり委ねられたが、僕たちはもう自由の中の責任を実感して他人を愛することもできる。愛されたからといって愛することは容易だが、愛されない人を愛することもできる。もちろんストーカー的な愛じゃなく、心からの想いを委ねることは自由の特権だ。自由に生きる分、自由に愛することもできる。そういった能動的な愛し方を僕たちには求められている。逆説的に言えば、卑屈に人を愛する自由もあるわけだが、それは果たして自分だろうか。自分が愛した人は自分に足りない性質を足し算的に追加できるものの持ち主ではないだろうか。

 

エホバの証人時代には受動的な愛でしかなかったが、辞めてしまった今なら能動的な愛を表明できる。愛する自由を得たことをぜひとも考えて欲しい。

愛するということ

愛するということ