元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

元エホバの証人〜死にたくなったなら〜

誰しも死を考えたことはあるとは思う。僕ですら考えて未遂したくらいだから、みんなはもっとその深淵について考えているだろう。故に僕はそれについては触れない。そして死を甘受したいならばそれに従えばいいと思う。

でも、これだけは考えて欲しい。エホバの証人として生まれてきたせいで死ぬのは負けじゃないか、ということと、もし二世じゃなく一世ならば、その死は自分が招いたものなのかと。

二世が死を考えるのは分かるが、一世の人が死を考えるのはいろいろとおかしい気がするから死ねとは言わず、生の苦しみを感じながら生きていって欲しい。しかし二世・三世に関しては親や組織からのマインドコントロールや制限された生き方を強いられてきたことを考えて、死を選ぶよりもむしろ自由を選んで欲しいと僕は思う。自由は素晴らしいことを感じて欲しい。その自由は自分を制限することですらからも開放されることを考えて欲しい。自由は心地よく、そして穏やかで何よりも自分に優しい事象であることを知ってほしい。そこにはエホバの戒律は存在せず、サタンの存在ですらない抑制されたものじゃないことを(なんだったら、金銭的に余裕があるならば、北方謙三氏が相談コーナーで言っていたようにソープランドに行くのもいいかもしれない。死ぬのが馬鹿らしくなるしらい)。

確かに人間には生きている意味など存在しない。これはヴィクトール・フランクル氏も言っていたように、自分で考える必要のある課題でしか過ぎない。自分で考えて意味などないと思うなら、僕はそれに対していつも思うことがある。「自分は何様なんだ」と。生きている価値なんて自分で測るものであって、エホバや親によって測られるものになんかじゃない。エホバの存在についてはもう再三考えてきたことだろうし、仮に存在するとしても、それはたかが主権論争の負け組に属することになってしまっただけのことにしか過ぎない。そんなことで死を考えても、どうせ将来的に100年も経たないうちに死んでしまうのだから、今をより良く生きることを考えてみればどうだろうか。

自分の死に関しては誰しも止めてはいけないものだと僕は思う。むしろオランダや一部のアメリカの州にあるような安楽死に関する法律がこの日本にあってもいいと思うくらいだ。でもそれは病気的に苦しすぎる人に対してのみ許されるべきものであると勝手に解釈している。僕から言わせてみれば健康体であればもっとつよく生きる方法でなにか考えてみてもいいんじゃないか、と思う。

今いる場所が苦しいと思うならば、そこから離れてもいいと思うし、離れられない理由があるならば変えるための力を身に付ければいいだけのこと。自分には出来ないという制限をかけなければなんとかなるものだと僕は思う。実際弱い僕ですらエホバの証人という組織から離れることもできたし、自己と向き合って生きていてもいいことを悟ることも出来た。こんな僕ですらできることなんだから、これを見ているあなたはもっとできるはずだと思う。

やりたくもなかった奉仕活動をする力があったのだから、それに向けられた力を自分に数パーセント向けるだけでも人生は大いに変わると思う。自分が嫌い? 多分それは自分が自分じゃなかったからだと思う。自分の思うように生きて、自分の思うように死にたいと思えば嫌いじゃなくなるはず。自分の為に生きられることは幸せだから。幸せな自分を嫌っている人なんか今まで会ったこともないのだが、それでも反論したいくらい死にたいなら、人に迷惑が掛からない死に方を考えてみてもいいかもしれない。

僕がずっと考えていた死に方は火山の噴火口へダイブするくらいしかないと思っている。それなら骨も見つかられないし死因も不明のまま処理される。それ以外の死に方は人によって処理されることを考えれば迷惑のかかる死に方ばかりだ。公園で死ねば家族に迷惑がかかからないという人もいるかもしれないが、それを見た人がトラウマになる可能性もあるし、遺体の処理をする人の手間も取らせてしまう。確かに金銭的に家族は若干助かるかもしれないけど、家族以外の人の精神的負担は大きいものがある。

死については恨み的な死に方もあるのは知っている。親に自分の死を見せつけることで親の宗教のせいで死んでしまったことをアピールすることもできるだろうが、あまりそれはお勧めしたくない。親の種類によるだろうが、親は子どもの死ですら利用する人もいる。子どもが亡くなってしまったせいでより一層エホバの証人として生きようと思うかもしれない。それは死んでしまった自分が果たして望んだことかどうかよく考えてみて欲しい。楽園で会えるから、と期待する親のために死を選ぶくらいなら、もっとこの世を堪能して生きている方が楽しいことは僕が請け負う。親のために死ぬくらいなら自分の為に、自分が愛する人と共に生きることを強く奬める。

死にたくなったらなら、何か食べてみるのもいいかもしれない。夜回り先生は鬱の人に会った時には一緒にうどんを食べるそうだ。うどんを食べると死ぬことが馬鹿らしくなるらしい。それくらい人間の脳はいい加減にできてる。

それでも死にたいなら、心療内科もしくは精神科が好ましいかもしれない。なにを見ても死に直結させるような気分・精神ならば入院したほうがいい。入院すると自分を客観視することもできるかもしれないし、何よりも食べ物が食べられなくても生きる事ができる(流動食や点滴になるが)。親によって狂わされた人生かもしれないけど、そんな親のために・親のせいで死ぬなんて馬鹿げていることを通院・入院中に考えてみて欲しい。できれば楽しい老後にするために精一杯いきて笑顔の伴侶と共に生きていこうと思える方が素晴らしい気はしないだろうか。そんな伴侶なんていない、と思ってもいつか見つかるかもしれない。その可能性のために、可能性がなくても自分の笑顔のために生きていけるように持っていければ幸せになれるから。

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