元エホバの証人二世ルデアの遺言

元エホバの証人二世の行動および状態に対するその態度と心理のブログ

「元」エホバの証人になったら〜自由を愉しむ〜

エホバの証人を辞めると発生する問題としてまず上がるのが、「孤独」だと思う。

 

今まではエホバの証人として兄弟姉妹たちという「仲間」がいたが、そういった長時間一緒にいた友達はエホバの証人以外ではあまりいないのが普通だと思う。この世と交わりすぎている人なら問題ないだろうがエホバの証人として規律を守っている人ならば、孤独は余儀なくされる。この孤立・孤独があまりにも脅威であるがゆえに、またエホバの証人として活動をする人もいることを僕は何人か知っている。

それほど孤独は人の思考を鈍らせるといっても過言ではないと思うのだが、果たしてその孤独は本当に孤独なのだろうか。そしてもし孤独を感じるなら、それは本当に恐ろしいものなのだろうか?

 

エホバの証人の仲間がいたときは共通のルール(聖書が絶対的に正しいというもの)があり、それがある意味監視社会として働いていたことを思い出して欲しい。そして、そのルールによってお互いがお互いを縛り、そこから生きていくうえで一番と言っても過言ではないものを奪っていたのではないだろうか?

 

そう、「自由」だ。

 

エホバの証人を辞めることによって確かに仲間と呼ばれる人たちを失ったかも知れない。だが、しかしそれと同時に自由を得ることになり、それを満喫する事ができる。

兄弟姉妹たちが集会に行ったり奉仕に出たりしている時間は、自分にとっては自由な時間に変わり、そしてその自由には時間だけでなく、ルールとしての束縛もなくなり、それは開放感で溢れているのではないだろうか。

エホバの証人として厳しい戒律はもはやない。「明日は死ぬのだから」といって避けられたこの世の人の一人として自由を謳歌できるのは、もはや生きることを手にした証拠だと僕は思う。というのも、そこには思考を移譲しない本当の自分の生き方があるからだ。自分で考え、自分で生き、自分として死ぬことができる。それだけでエホバの証人を辞める価値は十分にある。そこからもう「自己不在」ではなくなり、自分の人生に対して神が責任を負うのではなく、自分自身で本当は負えることを是非とも知ってほしい。

 

「自由には責任が伴う」というが、エホバの証人としての窮苦よりも実際はるかに時間的にも経済的にも楽だし、何よりもいろんなことを愉しむ事ができる。この世が提供していたものを謳歌する事もできる(バンジージャンプをしてもいいし、神社仏閣巡りをしてもいいし、なんだったらマスターベーションもできるようになる)。ある意味、神はもう僕たちを見捨てたんだと思ってしまえばいいのかもしれない。むしろこの自由より、エホバの証人としての責任の方が重いことに気がつくはずだ(だからと言って犯罪を犯す必要はない。それは自分の自由を損なう行為だから自殺行為に等しくなってしまう)。

 

こうしていろんな自由を満喫しても、ぽっかりと穴が空いてしまった気がするのなら、次の段階として「目標」を持つべきだ。

その目標はなんだっていい。お金持ちになることでも、地位や名声を得ることでも構わない。僕のように漫然と生きることを目標にしたって構わないのかもしれない。その目標を持つことが、生き甲斐になるように精一杯になればいい。だがこれは自由と相反することを言っているように聞こえるかもしれないがそうじゃない。自由があるからそういった目標を何にだってできるということを覚えておいて欲しい。

 

エホバの証人としての希望は「主権論争でエホバの側が正しいことを証明する」ことだったはずだが、それは一元的で押し付けられた希望・目標でしか過ぎず、そこには有無言わせない圧力があり、そしてそこには個性もなにもない自己不在への道しかないのではなかっただろうか。主権論争で神の側に立って初めて、楽園へと行けると教わっていたと思うが、自己不在のまま楽園に行って果たしてそこに本当の自由はあるのだろうか。目が死んだまま楽園に行くことになって幸せなのだろうか。それをよく考えてエホバの証人を辞めたなら、自己に意義を見出すために、その希望・目標を自分向きにした方が幸せになれる。そして、その自分向きの目標を持っている人は得てして魅力的であるがゆえに、人は勝手に近づいてくる。そうするとすぐに孤独じゃなくなるので、孤独を愉しむ時間は短いかもしれない。

 

 

また仮に、目標に向かって前進したとしても、孤独のままかも知れないし、性格上、友達ができにくい人もいるだろう。僕もどちらかと言えば友達を作るよりも趣味に生きる人間な上、人付き合いは面倒だと思う所存なので、孤独の寂しさというのはわかりづらいが、どうしても孤独を感じて寂しさが募るのならば、エホバの証人の奉仕活動で培った対人スキルのことを思い出してほしい。奉仕活動では、初対面の人と話をしていたのではないだろうか。それを少し応用すれば容易に友達はできる。自分の趣味について話あえるのがインターネットではないだろうか。Twitter などの SNS を駆使すれば容易に友達ができる時代だから、本当の孤独にはならないのではないかと思う。それに 2ch のような匿名掲示板はあちこちに存在しているので、一抹の寂しさを感じるならば、そこに顔を出してみると寂しさは薄まるはずだ。

それに孤独は決して悪いことではない。孤独の時間は自分を成長させる時間にもなり得るし、それも自由の時間の一つだ。寂しさを感じる、ということは考えてみれば「暇」な証拠であることを覚えておくといいかもしれない。暇ということは「目標」に進んでいない証拠でもあり、自由の在り方についてまだ良く理解していない段階だと僕は思う。

自分には孤独の穴を十分に埋める「自由」が手に入ったことを思い出してほしい。

 

 

孤独の価値 (幻冬舎新書)

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ひとりぼっちを笑うな (角川oneテーマ21)

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